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住職のことば

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僧侶が葬式を勤める理由

僧侶が葬式を勤める理由

2020.03.08

新聞広告に「無宗教なのに、お葬式にはなぜお坊さんを呼ぶのだろう」とありました。
みなさんは、どう考えますか?
以下は、その応答です。

まず、「無宗教なのに」とありますが、宗教心の無い人はいません。その自覚が無いだけです。
次に、葬儀に「お坊さんを呼ぶ」理由は、僧侶に葬儀を執行してもらい救われてきた歴史があるから、当然のこととしてそれに従うのです。
僧侶
僧侶は、仏教を依り処に生き人々にその生き方を伝える人です。それが人間にとって真(ほんとう)の幸せであると考えているからです。
仏教
仏教は、縁起の道理を説きます。
人は縁あって生まれ、縁により老い、縁により病となり、縁尽きて死ぬ。縁が尽きれば生きたくても生きられませんし、縁があれば死にたくても死ねません。
この道理に目覚め、「そのとおりでした」と頷いたところに、自己満足とは違う大満足、真(ほんとう)の幸せがあります。
死者の力
私達は自己関心のみに生きていますから、日頃は仏教を説かれても「馬の耳に念仏」です。
ところが葬儀となると、無言で横たわる死者が荼毘に付された白骨が、私たちの日常の感覚を一転させます。
「白骨の御文」を拝読すると、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身」は自分のことだと、一様に神妙な面持ちをしています。死者に人生の事実を教えられているのです。
それは、当たり前にしていた人生が輝いた一瞬、仏教に出遇った瞬間でもあります。
葬儀は、死者が縁となり、私たちが仏教に出遇う場です。


白骨の御文
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

※「御文」は、参列者に向かって拝読しますので、その様子が窺えるのです。

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