念仏の者は 人中の妙好人なり 善導大師
念仏の者は 人中の妙好人なり 善導大師
2021.09.15
蓮の花が咲きました!
蓮は、朝の陽光が当たらないと花芽が付きにくく山に囲まれた当寺境内では難しいと諦めていましたが、陽光が一番先に射す場所に鉢を移動しリン酸を多く含む肥料を与えたら、今年は三つも蕾が付き見事に開花しました。
蓮華は、仏教を象徴する花です。しばしば経典に取り上げられ仏具などの造形に用いられたり絵画として描かれます。
蓮華は、「淤泥華(おでいけ)」とも言われ、泥の中に根を張り泥に染まらない清らかな花を咲かせます。このことは、煩悩だらけの凡夫に清浄な世界(浄土)が開かれる、私たちの教えに相似しています。「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず」という喩えもあります。
蓮華の中でも白蓮華は、『観経』や『正信偈』では「分陀利華(ふんだりけ)」と呼ばれ、本願念仏の信心を獲得した人に喩えられています。
この念仏の者を善導大師は、さらに「妙好人」と言い換えています。
本願念仏を仰ぎ人生を歩む者は、白蓮華のような浄土に照らされているから「妙好人」、仏さまのような好人と表現したのでしょう。
無欲は怠惰の基である
これは東京パラリンピック競泳女子50メートル背泳ぎで銀メダルを獲得した中学三年生の山田美幸さんが座右の銘にしてきた渋沢栄一の言葉です。
生まれつき両腕がなく左右の足の長さが違う彼女の水泳人生を支えてきた言葉なのでしょう。
NHKのインタビューで、なぜこの言葉をそうしてきたのかを、素直に明るい表情で語っていました。
「やはり何事も真剣に取り組むと、欲が出てくると思うんです。もっと上を目指したいとか、メダルを取りたいとか。欲が出ることは悪いことでないと思い、自分の欲に素直に従って全力で取り組んでいきたいという思いを込めました」と。
その時の彼女はとても魅力的で、その純真さは「分陀利華」のようでした。
妙好人
伝統的に浄土真宗の模範的な信者をこう称します。しかし時代により妙好人像は変わるようです。
左の本に、「親鸞聖人の教えを、身をもっていただき、お念仏の道をあゆんでくださった」(「あとがき」より)二十人の先達たちが語ったお話が掲載されています。
「妙好人」という言葉は使ってありませんが、浄土真宗の信心に生きるとは、こういう人たちのことか、と頷きました。 今回は、その中の山崎ヨンさんのお話しの一部分を以下に掲載しました。
『生命(いのち)の大地に根を下ろして 親鸞聖人の声を聞いた人たち』(樹心社)の初版は、一九八七年に発行されています。編者松本梶丸師は、石川県白山市にある真宗大谷派本誓寺の住職でありました。二〇〇八年に七十一歳で西帰されています。
あとがきに、「いつの頃からだったであろうか。私たちの地方で、ひたすら聴聞ひとすじをあゆんでいるおとしよりたちの言葉が、ふと耳の底にとどまり、その言葉に不思議な力と、包まれるようなあたたかさを威じ、いつのまにか、それらの言葉によって、あゆまされている自分に気づいたのは・・・。(略)自分が教化しなければならないと思っていた真宗門徒の中に、私よりはるかに深く、私にはるかに先だって、親鸞聖人の教えを、身をもっていただき、お念仏の道をあゆんでくださっていた先達たちが、ゆくりなくも私の前に現われてくださったのである。そうした方がたの、人間の知恵に汚されない伝承の言葉は、至純な魂の結晶となって、なんと生き生きと、この私によびかけてくれたことであろうか。」と親鸞聖人の声を聞いた方々のことが記されています。
今回は、山崎ヨンさんの「三悪道がウラのおり場所や」からの抜粋を掲載しました。
※「三悪道」は、地獄道・餓鬼道・畜生道のことです。地獄道は傷つけ殺し合生きる世界、餓鬼道は貪りイライラ生きる世界、畜生道は主体性を奪われて卑屈に生きる世界です。
山崎ヨンさんは七十歳、聾(ろう)唖(あ)の障害をもった娘さんと二人ぐらしだ。今日までの歩みは言葉ではつくせない苦闘の連続だった。今もそれは少しもかわることはない。「自分の境界からみりや、三悪道はなしていくとかねえけど、いままでや、三悪道におるこたやりきれんと逃げておったけど、もう三悪道がウラのおり場所やということだきゃはっきりしたわ」とヨンさんはおっしゃる。「地(※)獄は一定」に立った自信である。人間の構築した自信ではない。光を仰いで生きる自信である。ヨンさんは、二人でひっそりと都会の片すみに生きている。だが、私の訪ねたその片すみは、深い安らぎと温か
さにつつまれていた。
※「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」、『歎異抄』にある親鸞聖人の言葉。
金銭は邪見をつのらせる材料や、これほどこあいもんはない
ほんとに、仏さんの眼でこの世の中みると、外見は結構な世の中やけど、心の根のくさったこといや、これ以上の哀れな時代ないわ。いうてみりゃみんな金やろ。親死んだ、女房死んだ、子ども死んだというて、金、要求するもんばっかりや。死ということ感ずる人、だれもおらんがね。自分もまたこんなふうに死んでいかんならんがや、そういう人生ってなんやろと、問いかえされることなんもないね。生も死も、人間の知恵や金で解決しようとしとるだけや。ほんとうに大事なこた金銭で解決つくかいね。金銭は邪見をつのらす材料やわね。これほどこわいもんはない。金によって人間な、どんながにもかわっていくがやさけ。
人間の知恵というたって所詮ははからいやろ。はからいやさけ、いつもわしゃまちごうとらん、わるいのはお前や、というとこにおるやろ。娑婆のの苦しみゃ、あいてを悪いとおもうところにあるがや。そのわるいとみとるわれをみることなけりゃね。その自分をかえりみる眼というか、教えがないがやね。あっても、それをわがのはからいでみとるさけ理屈ばっかいうとらんならん。それがお育てによってかえりみると、もうそこに、「馬鹿なこと思うとったなあ」というもんが自然といただかれてね。そうすっと手あわす以外ないでしょう。この世界はつよいもんやなあとおもうわ。わたしも、本(ほん)音(ね)いや、いいおばあちゃんといわれたいというのぞみもっとるよ。そやけど、お育ていただかしてもらうとそういわれるような自分でないもんの。のぞみをかけながらのぞみのほかのことばっかりしとるもん、叶うはずないわ。そんな浅ましい自分、見とないけど、見せられる世界やさけ、見たくなくても見えてくるわいね。「また、のぼせあがっとるぞ」とね。
不安は私のいのちやもん
われわりや、仏の仕事、われやっとると錯覚しとるがんねえか。ほんといや、われわれにゃ、感謝の念も、慈悲の心もないがやわね。あるもんな恥さらしだけ。人はよく「感謝せんならん」と力いれていうわね。そんなことお聖教のどこに書いてあるいね。いただかんならん、感謝せんならん、おかげさんやと、わがおもいでいうとるもんやさけ始末つかんわね。仏さんからみりや始末ついとるがやけど、そんなこというとる人に「そんなこというとるとこに仏さまござるかなあ」というでしょう。そうすっと、自分の信に傷ついたとおもうわけやね。信心といっても、自分でつくりあげとるさけ、壊れたり傷ついたりするがやわいね。きれいな手前勝手なところで聴いとるわけや。「ああ結構な話や」とね。聴くほうも話すはうもそんなところにおさまっとるさけ、何年聴いても聞法が生きる力になってこんがやないか。
こないだも、ある新興宗教の方がこられて、「婆ちゃん、不安ないか」とおっしゃる。「ええ、不安ありますよ」というと、その人、「不安あるでしょう。わたしら、その不安をとる会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」といわれる。「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。そやけどこの不安、あんたらにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。不安は私のいのち(・・・)やもん。不安とられたら生きようないがんないか。ウラ、まだ死にとねえもん」というたら、その人、私の顔みて目つぶっとる。「なんしとるがや、あんた」というたら、「婆ちゃんのこペ(ひたい)に光さしとるわ」といって帰っていかれた。こんなこと自慢しとるがんねえぞ、出遇うたままいうたがや。如来さまに遇うこたないと、自分のつくった迷いに苦しめられて、一生おびえたり、たてまつったりしていかんならん。信心といっても、そんな信心しとる人ばっかりでねえか。
この子がウラの犠牲になってくれたんやなあ
こんな障害(聾唖)の子どももっとると、いろんな信仰のさそいあったわね。そやけど、そんなもんには、すこしもゆるがんだね。七つ八つのときから、おじじのひざの上で、お念仏の声きいて育ったもん。念仏がウラの財産です。いのちです。この子ができてから、これと一緒に三悪道のまん中あるいとります。いままで、こやつ(子ども)がおったために、わりや犠牲になったといって、この子を白い眼でみたこともあったよ。あったけれども、これ(子ども)がウラを迷いつづけさせて、ウラをここ(お念仏の世界)にたたせてくれたんや。この子がウラの犠牲になってくれたんやなあと、いまやっと手の合わん中に手をわしとるんや。この子の腹の中わからんけど、外にすることは八分どおり教えられとるわ。学校も全然出とらんし、ウラなにも教えたこたないけど、ウラ以上に大事なこと、ちゃん
と知っとる。そういう子を、ウラが親(おや)面(づら)して見おろしとるこたようあるがや。ほんとに浅ましい邪見なもんや。そやけど、邪見とったら、なんもないのでしょう。またとる必要もないしね。これ、とったら道ひらけんもん。邪見は浄土へ行く道の道路工事のようなもんや。