天命に安んじて人事を尽くす
天命に安んじて人事を尽くす
2021.11.03
澤満之師をご存じですか。
標題の清澤満之の言葉を私が知ったのは、寺を継ぐために東京大谷専修学院で学んでいた時のことでした。それまでの私は、おそらく皆さんの多くがそうであるように、 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざを金言として生きていました。ですから、それとは正反対のこの言葉との出遇いは驚天動地でした。
また師には、「自己とは何ぞや。是れ人世の根本的問題なり」という言葉もあります。それにも驚かされました。「自己とは何ぞや」。この問いをふだんの生活の中では意識することはまずありませんが、私たちの心のもっとも奥底に必ずある問いです。その問いを探求する人生が仏道であると、師に教えられたからです。
振り返れば、清澤満之師のこれら言葉が私の仏道の出発点でありました。
新型コナ感染症の蔓延が契機となり、社会の変化が加速しています。ご門徒の皆さんと寺の今ある関係も次の世代にはどうなるのか、危ういところです。
寺は、「聞法道場」、人々が仏教を聞き語り合い、元気になる場所。
これを目標に、ご門徒の皆さんとの関係を結び直して行きたいと考えています。
天命に安んじて人事を尽くす
清澤満之(きよざわまんし)
1863 - 1903
明治36年6月6日西帰・41歳
ことわざに「人事を尽くして天命を待つ」とある。
「まずは全力を尽くす」→「ここまでやったから、あとはお任せだ」という運命論であり、広く知られた人生訓である。「あとは何とかして下さる」というほのかな期待も感じられ、この「天命」は「結論」であり「終着点」である。
一般に宗教に対するイメージも、このことわざどまりであろう。「こうなれば、あとは神頼みだ」となり、敬虔な不作為と判断停止を生む。本願他力も「自力は×・他力は○」といった相対的な構図にゆがめられ、改善努力や批判精神までを委縮させる骨抜きが起こる。根深い誤解である。
明治期を生きた清澤満之師は、ことわざとは真逆に「天命に安んじて人事を尽くす」と言われた。
「天命に安んじて」 とは、因縁の法により成るように成っている現実回帰を促す命
令であり、「人事を尽くす」とは、己が分限=自分までも「天命」と拝命し、分限を尽くす「出発」を意味する。
某寺で目にした、藤代聡麿師の法語の一節を想起する。
「なるようにしかならぬだろうが、なるようには必ずなる。その成ったところに全生命を打ち込む」。
他力教は、無力主義ではない。真の自力主義と讃嘆したい。
以下、暁烏敏師御作『清澤満之先生讃仰』和讃からの抜粋である。
「他力」への誤解を破って下さる、驚きの言葉の連発だ!
絶対他力はただひとつ
天地に満つる力なり
他力の外に自力なし
自力の外に他力なし
われ等が自力と思いおる
力も他力の廻向(えこう)なり
天地に満つる妙用は
自力他力と荘厳(しょうごん)す
他力の教をききちがえ
人の自力ときらいおる
萬善諸行の根底に
動く他力を教えたり
◎了善寺様(住職 百々海 真 師)ホームページ より転載しました。