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住職のことば

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宝の山に入りて 手を空しくして 帰ることなかれ

宝の山に入りて 手を空しくして 帰ることなかれ

2022.09.14

標題は、地獄の有様を詳しく書いた書として有名な『往(おう)生(じよう)要(よう)集(しゆう)』にあります。
仏教の道理から人生を顧みれば、この人生は「宝の山」。せっかく人間に生まれ仏教に遇うチャンスを得たのだから、空しく終わるようなことがあってはならない、という意味です。
ところが私たちは、理性や感情で人生を省みますから、老を感じ病いを患いやがて死んでいく人生を、寂しく悲しく思います。ふだんは、このことを都合よく忘れていますが・・・。

『今昔物語』に「信(しな)濃(の)守(のかみ)藤(ふじ)原(わらの)陳忠(のぶただ)御(み)坂(さか)より落ち入る語(はなし)」があります。
「信濃守」は、信濃国(長野県)の政治を任された地方官のことです。「受(ず)領(りよう)」とも呼ばれ、今の県知事に当たります。しかし、選挙で選ばれ住民の福利を職責とするわけではありません。任期中に税金を取れるだけ取ることを任務としていました。
古典や日本史の教科書でこの説話を扱いますので、ご存じの方も多いと思います。

藤原陳忠は、信濃守の任期を終え都(みやこ)(京都)へ帰る途中、御坂(今の神坂(みさか)峠)で馬が足を踏み外し馬もろともに深い谷底に落ちてしまいました。
家来たちは、死んだに違いないと思いましたが、谷底から「篭を下ろせ」と声が聞こえてきました。
そこで篭を下ろし引き上げると、なんと篭一杯に平茸が入っています。そして次ぎに篭を下ろすと、今度は主人が片手で縄をつかみ、もう一方の手には平茸を三房ばかり握って上がってきました。
家来たちは無事を喜びましたが平茸のことをいぶかしく思い、その訳を訊ねたのでした。
そうすると信濃守は、「馬は谷底まで落ちたが、私は途中の茂みに引っかかり助かった。周囲を見ると平茸がたくさん生えていたので採れるだけ採ったが、まだまだ沢山残っている。大損をした思いだ」と真面目に応えたので、家来たちは呆れて大笑いしたのでした。すると信濃守は、「おまえたちは考え違いをしているぞ!」と、厳しくたしなめました。
「私は、宝の山に入りて、手を空しくして、帰る思いである。『受領は倒るる所に土をもつかめ』と言うではないか」と。
受領の任務は、これぐらいの貪欲さが必要だと言い放ったのです。
この話しを源信僧都に戻せば、空しく人生を終わらないためには、自分の人生に貪欲であれということでしょう。
ただし、仏教の道理にうなずくチャンスは、その時々の理性や感情を自分だとしている間は訪れません。

 南無阿弥陀仏


一生は尽くといえども、希望は尽きず。

             源信僧都

 この言葉に続く文章の終わりに、「宝の山に入りて 手を空しくして 帰ることなかれ」とあります。
その内容を、私流に書きました。

はげ頭になって一生は尽きようとしているのに、自我(エゴ)を私として生きているので、夢や希望が尽きない。
損得勘定やプライドにこだわり、世間体が気になり、自分は正しく他が間違っていると思い込み、その思いに縛られ、それに振り回され、浮いたり沈んだりしてる。
あるいは自己満足を「幸せ」と疑わず、それを得ることを当然の権利と思っている。
たまにはその「幸せ」を感じることもあるが、それが壊れることに怯え、不安は募るばかり。ここに偽物の宗教が入り込む隙があるのですよね。
一人ひとりが自由に平等に幸せに生きられる社会は、人類の理想。その実現に向かって世界は進歩していくものだと生きてきましたが、皮肉にもその正義が戦争を長引かせ人々を苦しめている。
この納得できない人生を空しく終わらないためには仏教の道理に順う以外にない。と確信します。
「宝の山に入りて、手を空しくして 帰ることなかれ」。


次の文章は『大谷大学ホームページ』からの転載です。
自殺するしかないと思い詰めていた人が、仏教の道理に遇い、取り止めにした話しです。

 

ある俳優がテレビの中で次のような話をしていました。

18才になる青年が、人生上の問題で行きづまり、自殺しようとして一人の僧侶を訪ねました。青年は、「自分はもう生きていくことができないので自殺しようと思うが、自分の葬式をして欲しい」とお願いしました。
するとその僧侶は、「君が自殺までしようとするからには余程のことがあるにちがいない、葬式は挙げるから心配しないでよい、ただ今日まで生きてきていろいろお世話になったのだからお礼だけは言ってきなさい」と諭(さと)したのだそうです。
青年はなるほどと思ったのか、「両親ともう一人の某にはお礼を言ってきます」、と言って立ち去ろうとした。すると僧侶は、間髪を入れず、「君は学校へ行っていただろう、学校では誰のお世話にもなっていないのか。君は毎日ご飯を食べてきただろう、お米や魚のお世話になってきたのではないか」、と次々質問しました。
青年は自分がお礼すべきことどもがあまりにも多くて、お礼し切れないことに気づき自殺できなくなったのだそうです。

この話は、自分自身に対する私たちの根本的な誤解をとてもわかりやすく教えてくれます。
私たち一人一人は、もともと考え尽くせないほどの無限の用(はたら)きによって成り立っています。このことに思いが及ぶならば、実は私たち一人一人には既に無限の宝が与えられていることに気づくはずです。
それにもかかわらず、私たちは、自分が今、ここに生きてあることをあまりにも当然のこととしているので、それだけでは満足できないような心を持って生きています。普段の生活の中で、自分と他人を比較して、なんとなく何かが足りないという感情に悩まされることは、誰にとっても身近なことでしょう。
それ故、私たちはその足りない「何か」を求めて日々苦労しています。しかしよく考えてみましょう。何かが足りないという感情は、裏返せば足りないものが何であるのか分からないということと同じなのではないでしょうか。
自分が何を求めているのか分からなければ、どのようなものを手に入れても決して満たされることがないのは当然でしょう。
このようにして求めても求めても決して満たされることのない生き方を空(むな)しい」と言うのでしょう。
本当は宝の山である人生を空しく過ごさねばならないのは何故なのでしょうか。
表題の一文はそこまで触れていませんが、私たちが自分の勝手な考えや都合にしばられて、本当は無限の用きによって成り立っているという自分自身の事実を忘れてしまっていることにあると言うのです。そしてここに立って初めて、誰にも代わることのできない、また代わる必要のない人生の発見があると教えているのです。


 

仏法は聴聞(ちょうもん)にきわまる
             蓮如上人 


 

 

 

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