仏事には、念珠と門徒章を!
仏事には、念珠と門徒章を!
2024.09.21
先日、あるご門徒宅を訪れた時に「平服で法事をお勤めすることは出来ないでしょうか?門徒章は、全員分自分が購入します。」と相談がありました。
実は、その方のお母さんのお通夜に際して「門徒章を着けてください。そうすれば裃を着けたと同じ扱いになります。」とお話ししたということがあったのです。ご夫婦そろって門徒章を着用して通夜葬儀はお勤めしましたが、今度の49日に「平服でお越しください」と案内したいお気持ちから相談されたのでした。そしてさらに「住職は、法事に念珠を持ち門徒章を着けることを流行らせたいと言っていましたね。それにもつながると思うのです。」とお話しくださいました。
黒い礼服で臨むことが当然と思い込んでいた私は、一瞬、たじろぎましたが、「黒い礼服で参列するのは、日常生活の意識をあらため非日常の世界に触れるため。ならば、念珠を持ち門徒章を着用すれば黒い礼服を着なくも」と考えが定まり、「平服でもかまいませんよ。」とお答えました。
「門徒章を着ければ、裃を着たのと同じことになる」。確かに私はそのように教わってきましたし、「日常生活の延長線上の気持ちで法事を過ごしても「法事(仏法の事)」になりません」とか「仏法に触れその喜びを味わうには、日常生活の足を止める必要があり、それが儀式です」などと日頃から話していますので、念珠を持ち門徒章を着用することで仏さまに向かう意識が出来れば、黒い礼服にこだわる理由はないわけです。
一方、いくら黒い礼服を着て念珠門徒章を着用していても、日常生活の意識のまま、つまり単なる習慣や義理や世間体であるいは親戚や近所の方々との親睦をはかるということで「法事」をつとめるということならば、それは仏事ではありません。
とは言え本音のところ施主になると、日取りはどうするか?場所はどうするか?どなたに案内をするか?料理は引き物は?と、悩みは尽きませんし、案内する方々に「迷惑をかけたくない」という気持ちもあります。法事をお勤めすることは大仕事ですよね。が、よくよくその時のことを考えると法事の目的である「亡き人をご縁として仏法に遇う」という大切なことが抜け落ちていることがあるのです。また、「迷惑をかけたくない」という言葉は、法事に招かれた時に迷惑を感じたところから出てくる言葉なのでしょう。法話の前に「仏法聞きがたし 今すでに聞く」と三帰依文を唱えますが、法事というせっかくの仏縁があっても仏法に出遇っていないのです。当然、「人身受けがたし、今すでに受く」と、今この身をいただいている喜びもあるはずがありません。
話しがそれました。もとに戻します。
そのご門徒のお話しで、ひらめいたことがありました。「貸し出し用の門徒章を作ろう!」と。
このことを早速色々な方に相談しました。「実は、平服で来てくださいと私も案内したいと思っていた」という方もいました。逆に、「かえってどんな服装にするか悩む」という方もいました。
そこで寺での法事で施主の希望があれば、門徒章を貸し出すことに決めました。
どうぞお申し出ください。
念珠を持ち門徒章を着用して仏事に臨むこと。私の流行らせたいことです。