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門徒のひろば

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「養老のおたま」が歩いた道

「養老のおたま」が歩いた道

2016.08.18

 

8月9日、朝のお勤めを終え庫裏に戻ろうとしたところ、本堂の前に川名修先生をお見かけし声をおかけしました。

先生は8月11日の富山地域づくり協議会「ふらっと」の「里見発見ウォーク28」の下調べをなさっていたところ、『鋸南町史』に掲載されている「養老のおたま」という民話の中に偶然に「二部のお寺」の文字を発見し、それが当寺のことだと確信され、その驚きを住職である私に伝えようとされたのでした。

先生がお越しの際はちょうどお朝事の最中でしたので、先生は遠慮され坊守(ぼうもり)に玄関でそのことを話し『鋸南町史』の「養老のおたま」のコピー(「わたしは奥山から二部のお寺に嫁入りした」赤線が引いてありました。)とそれを元に先生が説明用に作成された文章を渡され、ご自宅に戻ろうとしたところでした。

川名修さん[川名先生のお話に聞き入る方々]

先生の「そのお気持ち」が大変に嬉しく、当寺が人口に膾炙していた証拠となる民話ですので下記に掲載します。

養老のおたま
私たちが歩いて来た道は、二部と佐久間を結ぶ元々の生活道路で、内房の花嫁街道とも言われています。この辺りの地名は養老と言いますが、ここには、「養老のおたま」という昔話が残っています。
むかしむかし、このあたりの養老に髪の毛が大好きな狐が住んでいました。人を化かしては、髪の毛を食べてしまい、丸坊主にしてしまったそうです。
ある時、利口な男が、「俺はけっして化かされないぞ!」と心に決めて、佐久間から二部へ用達(ようたし)に出かけたそうです。
この辺りの養老まで来て、一休みしていると、二部の方からきれいな女の人が赤ん坊を背負ってやって来ました。
その女は、「背中の赤ん坊が乳を欲しがるので、降ろすのを手伝ってください」と男に頼みました。
「さては狐だな、そんなことを言って私をだまそうとしているにちがいない」と思った。その男は、赤ん坊を背中から降ろすやいなや、地面にたたきつけてしまいました。
「なんてひどいことをするのですか! あなたは鬼ですか!」と女は泣き叫びました。
「いや~、あなたがあまりに美しかったので、養老のおたまが、てっきり化けたのか、と思ってね~・・・」と男は答えました。
「とんでもない。私は佐久間から二部のお寺へ嫁入りしたものです! この子が大きくなったので、親に見せに行くところだったのです。こんなことになってしまっては、親のところへも行けず、二部のお寺へも戻れません。いっそ、自分もここで死んでしまいたい」と女は泣き崩れてしまいました。
さすがに、その男もびっくりして、「なんとも申し訳ないことをしてしまった。どうしたら許してくれますか?」とその女に話しかけました。
女は、「ではお寺に一緒に行って、事情をよくお話して詫びてくださいますか」と言いました。
お寺に着き、男がお坊さんに詫びを入れると、お坊さんは手を合わせ、ゆっくりと口を開いて、「あなたの罪は、万死に値する。しかし、仏の教えを説くものとして、役所へあなたを突き出すこともできません。あなたが自分の罪悪を悔い改め、これからの人生を寺男として働き、この子の菩提を弔うなら、許してやろう」と言いました。
男は、やむなく承知し、「寺男になりお寺で働きます」と言いました。
お坊さんは、「では、髪をおろしてあげます」とカミソリを手に取りました。
男は、神妙に鏡に向かっていましたが、あまりに頭がチクチクと痛いので、正気に戻りました。あたりを見回すと、自分が畑の中を這いずり回っていたことがわかりました。しまったと思って頭に手をやると、丸坊主で髪の毛が一本もありませんでした。空を見れば、高い日がサンサンと輝いていました。

「鋸南町史」から

 

紙芝居  養老のおたま ←ここをクリックすると紙芝居の画面になります。

 

以下は、「養老越え」について少しだけ取材し作成しました。

養老越えDSCF5548

標識は、オレンジ色の道路の入り口にあります。

「下要路線」とあります。「要路」がお年寄りをいたわり大切にする意味の「養老」に変化したのでしょう。「下(しも)」とあるので「上(かみ)」があったはずです。

IMG_0403 IMG_0404

この標識の東側のお宅(ナガヤマ)に能重とくさんがいらっしゃいます。現在95歳です。大変お達者で毎日老人カーを押して片道1キロメートルほどの ウォーキングをされています。「養老越え」についてお話しを伺おうと訪ねると「妹が佐久間に嫁ぎ赤ちゃんが生まれた時には、養老越えをたびたびしました」と。「下要路線」が養老越えの道ですかと尋ねると、「昔はもう一本東側に道があり(地図の赤い道)そこを皆歩いて佐久間に向かいました。」と、そして「(『鋸南町史』に出てくる)「お地蔵様」が佐久間に下るあたりにあってそこで休憩をした。」ともお話しくださいました。

IMG_0405

93歳の前坊守(私の母)にこの話しをすると、「小学校5~6年生のころ佐久間にある親戚の祝儀に赴く際に「養老越え」をし、山の頂上(お地蔵様のあたりか?)で晴れ着に着替え山を下った」と話していました。

 

もうずいぶん前にお亡くなりになった朝倉乃婦というお婆さんのことを思い出しました。世話人をして頂いている家でしたのでたびたび用事で伺うことがありましたが、そのたびに同じ話をなさるのです。その初めが必ず「私は、旦那の顔も知らないまま佐久間から嫁に来たんですよ」でした。乃婦さんの佐久間から二部への花嫁道中、「養老越え」は「花嫁街道」のだったのです。そして延々と人生を振り返る話しが続くのです。彼女は長く病院勤めされていました。それと合わせて家のこと子育て農作業とご苦労もたくさんあったはずです。やがて旦那さんを亡くし長男の子どもを母親代わりに立派に育て上げ84歳で亡くなっていかれました。毎回聞かされる話の最後はいつも「だけど私はみんな有り難いと思っているよ」でした。当時は、この言葉までくるとやっと解放されると思っていたのですが、「苦労が当たり前だった時代を生きた方の言葉」だったのだと懐かしく思い出されました。

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