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第1回勝善寺聞法会を12月16日に開催します。

第1回勝善寺聞法会を12月16日に開催します。

2018.10.08

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第1回勝善寺聞法会

12月16日  14時~16時

テキスト:『歎異抄 白日抄』 ※1,000円でお分けします。

参加費:1,000円

当寺所属ご門徒はもちろん、仏教を聴聞したい方はどなた様もご参加ください。


勝善寺聞法会の講師を務めるに当たって

       副住職 井上泰之

 本年三月、私は因縁によって大学院を辞め、その傍ら勤めていた高校の非常勤講師を辞し、さらにある学舎も去った。こんな愚鈍な私ではあるが、昨年は精神的にやられ、一時は精神科を受診していた。今は「あれもあれでよかったな」とも思いつつ、野心にも溢れている。
この四月からは京都のとある仏教系の福祉施設に入職し、相談員として勤める日々を送っている。仕事のことはさておき、そこで直面したのは、如何に私が死に関して無知であったかということである。その現場では日々利用者が亡くなっていく。利用者にも家族にも「看取りケア」と施設側は訴えつつ、それが「本当に看取りなのか」と疑問も抱く。有無を言わさぬ死の事実に対して、何とか最後の最期まで手を尽くそうとする実態がそこにはある。利用者が亡くなれば、一段落する職員、「お世話になりました」と顔をあげて言う家族、悲しみにくれ続ける家族がいる。一人ひとりの死の事実の受け取りは様々である。そのような様々な利用者・家族・職員がいる中で、「この人の人生は何だったんだろうな」と思うのである。
一応の仏教・真宗のことは大学院で学んできた。また偉そうにも中学生・高校生を相手に、「満足心」ということで宗教の授業もしてきた。宗教は机上の学ではなく、実践の学である。ところが実践の学と言いつつ、理論や理屈でいっぱいの私自身のように思うのである。目の前に老病死の事実がありつつも身体は凝り固まり、日々の仕事に追われて大切なことを見失っているようにも思われてならない。そして自己の奥深くには、自我という癌で蝕まれているように感じる。時々「あの人ならば」ということも考える。
この12月より新たな聞法会を行うことになった。今の私は求道・聴聞を遠ざけている。一方で「聞かなくてはならない」とも思う。今は、ある医者、ある教育者、ある生活者、ある仏教者の本を読んでいる。それを読んでいると、分野は異なるが、一つのことしか言っていないように思うのである。そこで、これまで私はまともに『歎異抄』を読んだことがなかったが、今だからこそ新たに『歎異抄』を先学にたずねながら読んでみたいと思う。

九月五日記す。


 

 「勝善寺聞法会」でテキストとする『歎異抄 白日抄』(写真)は、「歎異抄」・「白日抄」・付録で構成されています。
今まで読んだことの無い方にも「歎異抄」の魅力が伝わってくるこの文章を掲載しました。
暁烏敏師の「歎異鈔講話」(『暁烏敏全集 第六巻』凉風学舎発行)の第一章緒言の一部です。
『真宗聖典』やテキストでは、「歎異抄」と標記していますが、ここでは「歎異鈔」と標記されています。
ちなみに師がこの文章を書いたのは、満二十五歳、ただ、驚かされるばかりです。


第一項 『歎異鈔』の世界的価値

一 私を他力の信仰に導いた書物の一つが、この『歎異鈔』である。私をして弥陀の本願に帰せしめた書物の一つが、この『歎異鈔』である。叉私をして親鸞聖人の渇仰者たらしめた書物の一つが、この『歎異鈔』である。
二 私が今日でも、悲しい事のある時、苦しい事のある時、心の欝する事のある時には必ず、この書を取りいだして読むのである。故に私には、この『歎異鈔』一部が、如来の御声ときこえるのである。佛教に沢山の経典がある。その中で最も私を感化し、叉最も私を慰めてくるる聖典はこの『歎異鈔』である。真宗に沢山の聖典がある、
その中で最も私を導き、叉最も私に安心を与ふる聖典はこの『歡異鈔』である。私はこの『歎異鈔』さヘ一部あれば、他の一切の書籍、他の一切の聖典、他の一切の論釋はなくても差支がないのである。
三 私は大体が浮薄な性である故か、一部の書物を二度も三度も読んだことはないのであるが、この『歎異鈔』のみは、浮薄なる私を浮薄ならざらしむるだけの大いなる力を有してをるのである。いかなる書物も二度と読まぬ私をして、二度も三度も五度も十度も百度も読むを喜ばしむるのが、この『歎異鈔』である。この一点でも『歎異鈔』がいかに大いなる威力を有し、妙味を有するかがわかるのである。
四 カント氏の『純粋理性批判』も立派な書物であらう、ダーウヰン氏の『種の起源』も立派な書物であらう、ダンテ氏の『神曲』も立派であらう、ミルトン氏の『失楽園』も立派であらう、『ウパニシャッド』も結構であらう、『ゼンドアベスタ』も結構であらう、『コーラン』も結構であらう、『論語』も結構であらう、『伝習録』も結構であらう、『言志録』も結構であらう、『四福音書』もありがたいであらう、『阿含経』もありがたいであらう、『法華経』もありがたいであらう、『維摩経』もありがたいであらう、『往生要集』も親切であらう、『選択集』も親切であらう、エピクテタス氏の『ディスコース』も面白いであらう、日蓮上人の『遺文録』も面白いであらう。然しです、私にはこれ等の種々の書籍は、譬へば星のやうな月のやうな光明を与へてくれましたが、この『歎異鈔』は太陽のやうな光明を与へてくれました。故にこの『歎異鈔』は一切の聖典の中で尤も立派なる、尤も結構なる、尤もありがたい、尤も面白い聖典であると私は思ひます。若し私をして、たゞ一冊の書物を携へて離れ島に行けと云ふ人かおるならば、私はカント氏の『純粋理性批判』も持ちません、ダーウヰン氏の『種の起源』も持ちません、ダンテ氏の『神曲』も持ちません、ミルトン氏の『失楽園』も持ちません、『ウパニシャッド』も持ちません、『ゼンドアベスタ』も持ちません、『コーラン』も持ちません、『四福音書』も持ちません、『維摩経』も持ちません、『往生要集』も持ちません、『選択集』も持ちません、エピクテタス氏の『ディスコース』も持ちません、日蓮上人の『遺文録』も持ちません。私は何は持たないでもこの『歎異鈔』を一部持ちさへすれば結構である。私の唯一の友はこの『歎異鈔』である。若しそれ、この『歎異鈔』を有するが為に、他の書物を捨てねばならぬやうなことがあれば、私はこの『歎異鈔』一部のために他の総べての書籍を捨てても惜しくはないのである。
五 私は思ふ、日本で書かれた書物の中で世界に示して大いに光明ある書物はこの『歎異鈔』である。故にこの『歎異鈔』は真宗信徒のみの私すべき聖典ではない。日本国民のみの私すべき聖典ではない。私は遠からざる年の内にこの『歎異鈔』が世界全国の民に安慰と指導とを与ふるであらうと云ふことは信じて疑はない。
六 これくらゐ貴重なる聖典であるにも拘らず、今までの日本の国民はこの珍宝を有することさへも知らなかったのである。今私がこゝに喋々とこの書の功徳を述ぶると、読者の或る人は奇異に感ずるであらう。何となれば読者の或る人は未だこの『歎異鈔』と云ふ聖典が日本にあると云ふことさへ知らない人があるかも知れぬ。又或る人は知つてはをれど今日までさほど結構な聖典であると思うてをらぬかも知れぬ。然し之は猫に小判である、盲人に鏡である。実になさけないことである。故に私はこれからこの聖典を諸君と共に、味はうて行きたいと思ひます。(明治三十六年一月四日稿)

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