盂蘭盆会 8月10日(土)10時~11時30分
盂蘭盆会 8月10日(土)10時~11時30分
2019.07.10
清浄光明ならびなし
遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ
(『浄土和讃』 『真宗聖典』p479)
どうぞお参りください。
副住職が帰省し法話します。
写真は、昨年の盂蘭盆会風景です。
一番右は、真宗大谷派で飾る切り籠灯籠です。
真偽の程は定かでありませんが、髪の長い女性が逆さづりにされている姿を表しているそうです。
そして、この説は「盂蘭盆」という言葉の意味から作られた話のようです。
逆さづりにされたような苦しみのことを、古代インド語では「ウランバーナ」というのだそうです。
意味を漢字で表記すると「倒懸(逆さ吊り)」、音を漢字に写すと「盂蘭盆」だと。
逆さ吊りにされれば、頭に血がのぼりますよね。
つまり、「盂蘭盆」とは、頭に血をのぼせてカッカしている私たちの姿なのだそうです。
このことは、私たちが餓鬼道に堕ち苦しんでいる姿、とも言えましょう。
餓鬼道は、求めても求めても真(ほんとう)の満足が得られない苦しみの世界のことです。
皆さん、どうですか?
盂蘭盆会は、そのように生きている自分の姿を知る法要です。
実は、このことは何よりも大切なことだと、私は皆さんにお伝えしたいのです。
なぜなら自分自身のその姿に気づいた時が、「弘誓の仏地」に足がついた時、ありのままの自分に安んじ立った時だからです。
それが「安心をいただいた」とか「すくわれた」ということです。
冒頭の和讃には、親鸞聖人が阿弥陀仏の清浄光明に出遇い「一切の業繋ものぞこりぬ」、と救われた喜びが感じられます。
地獄・餓鬼・畜生の世界を自らが作りだし生きていた。そんな自分を見捨てることもなく摂取してくれていた阿弥陀仏(清浄光明)に遇えたからこそ、私はすくわれた!と。
阿弥陀仏を讃嘆せずにはおれず、この和讃を詠まれたのでしょう。
ところで自分の毎日の姿をあらためて省みますと、「(おまえも)とても地獄は一定すみかぞかし」(「歎異抄」『真宗聖典』p627)と、親鸞聖人のお言葉が聞こえてくるようです。
この切り籠灯籠なぜ髪の長い女性なのか、それは切り籠灯籠の形からそう考えたのでしょう。
男も女も、逆さづりにされたような苦しみを生きていることに変わりはありません。