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門徒のひろば

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2019報恩講 百々海 真 師 法話 (抜粋)

2019報恩講 百々海 真 師 法話 (抜粋)

2019.12.15

「驚き・発見・出立」

 この言葉は、仏法に出遇うとは、私の上にどういう世界が開かれることなのかを簡潔に教えて下さっている林暁宇先生の仰せです。

 『出(で)遇(あ)いには、まず「驚き」があります。今まで夢にも思ったことのないようなことに出遇った驚きです。そんなことはわかっていたとか、知っていたということではなく、まったくの驚き。「驚き」と同時に「発見」。目が覚める。そして同時にそこから「出立」。出発。発心(ほっしん)。
 「ああそうか、これでわかった」で終わるなら出遇いとはいえない。新しい歩み、人生が、そこから始まる。こういうことが備わったものを「出遇い」というのです』。(林 暁宇『君は君の願いに生きていけ』35頁)

 出遇いは「驚き」なのです。何も見えていなかった自分に「驚き」、もともとの景色が見えてくる「発見」です。それは自分のものの見方、考え方から解放される「出立」です。地に足が着くのです。「驚き」「発見」「出立」は、一念同時の出来事です。それが出遇いの内実なのです。
 具体的には、私の思いを破って下さる教えの言葉、根源的には「南無阿弥陀仏」であり、親鸞聖人でいえば「よきひとのおおせ」、法然上人の仰せとの出遇いでした。私以上に私を見抜いている智慧の言葉に言い当てられる「驚き」です。
 仏教は言葉の宗教です。が私たちは「言葉不要の宗教感覚」を民族性として共有しています。大いなるものへの埋没感情や夕陽を眺めた感動です。それはそれで結構ですが、仏教は一時的な癒しや清々しい心境を与える救いではなく、真実の道理への目覚めを救いとする教えなのです。
 
 「浄土真宗」とは、「浄土こそ真(まこと)の宗(むね)」という教えを指す言葉です。単なる組織名・教団名ではありません。「宗(むね)」は、身体でいえば胸、建物では棟木です。胸は心臓ですから、心臓が壊れたら人間は命を終えます。棟木が倒れれば、建物は建物ではなくなります。「宗」は「要」、全生活の中心点を意味します。親鸞聖人は「浄土こそ真の宗」だといわれるのです。
 では、私たちは何を「宗」、全生活の中心に据えているのか。
 「浄土」ではなく、自分の思い、自分のモノサシを「宗」として、信じて疑わないのが今日の私です。いわば「自分教」の熱心な信者なのです。しかも「宗」としている自分のモノサシが正確かどうかは、そのモノサシ自身では確かめようがないのです。
 先日、結婚披露宴に招かれました。十余りの宴会場を有する新宿の有名ホテルが会場でした。が、秋の婚礼シーズンの週末なのに、空いていました。当日は台風の荒天。「キャンセル続出でガラガラなの?」と係に尋ねたら、「今日は「仏滅」なので、ご予約が少ないのです」との返事でした。科学万能の令和時代になっても、「日柄」に左右される方が多いのですね。ビックリしました。
 誰もが幸せな結婚を願うのは当然です。非難する資格は誰にもありません。が「大安」に挙式すると、順風満帆な結婚生活が保証されるのでしょうか?
 「日柄」選びは、些細な話では決してありません。何故ならば、結婚式だけでなく、重要な契約、引っ越し、着工など、人生の節目を「日柄」に託すのですから。まさに「日柄宗」の熱心な信者です。私もスマホに依存している「スマホ宗」なのかもしれません。「ウチは代々浄土真宗」と言いながら、お互いに何宗なのでしょうね。
 上から目線で「日柄」を選んではダメ!と言っているのではありません。ですが「日柄」を重要視するモノサシは、確かなのでしょうか?実は如来の智慧によって、自分のモノサシを吟味されることが聞法なのです。これまでは当たり前だと思っていたこと、問題にならなかったことが問題として見えてくる「発見」の歩みです。実は「真宗」に遇うとは、「真宗でないものを宗としていた!」と知らされることなのです。
 先程の黒川様の感話では、「かん違いから始まった」と聞かせていただきました。大事な一点です。真宗に出遇うとは、正解を覚えることではなく、「かん違い」を「かん違い」と知らされる一瞬の「驚き」です。しかも、一度わかって終わりではない。念仏によって呼び覚まされ続けねばならない私だった!と破られ続けていく道なのです。

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