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門徒のひろば

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第3回勝善寺聞法会 講師法話(抜粋)

第3回勝善寺聞法会 講師法話(抜粋)

2020.03.08

いずれの行もおよびがたき身

九月二十五日に一学年上の親しい先輩が突然亡くなりました。病気ではありません。事故です。駅のホームで電車に巻き込まれました。
私は動揺し、色々な思いがわき起こりました。二ヶ月余経過し、やっとその死を話せるようになりました。私の中でこの問題が消化されたからです。

亡くなる二ヶ月ほど前に飲んだのが、最後になってしまいました。
富山県の寺の三男坊であった彼は、結婚して北海道の寺に養子に入ることが決まったと話していました。「よかったですね」と祝福したんです。十月にそこへ行き僧侶として活動する準備をするのだと話していました。
その後八月にまた飲みたくなって電話で誘ったんです。ところがいつもと違いなぜか暗い。しんどそうな声をしているんです。聞いてみると、まあ体調的にも精神的にも苦しいと。退職した人の仕事までがどっと回されてきて、体調を崩し精神的にもまいってしまったのだそうです。だから静養のために会社を辞めて、ひとまず実家に帰るということでした。その時は「そうですか お大事に。また飲みましょう」と電話を切ったんです。
九月二十日のことでした。彼から電話がかかってきて、相当しんどそうでした。
実は、私も三年ほど前しんどい時期がありました。偏頭痛はするし、無気力になってしまった。そんな経験があったから「無理したらダメですよ。ダメなときは、ダメな自分を何とかしようとするから、余計にダメになっていきます。ダメで良いでないですか」と、彼に元気が出ればと思い色々話しをしました。

そして十月五日でした。友人から突然電話があり、「彼が亡くなった」と。
駅のカメラには、ホームに入ってきた電車に巻き込まれるように跳ねられた彼が映っていたそうです。警察は「自殺ではない」と結論。彼の父親は葬儀の挨拶で「自殺ではなくてよかった」と参列者に話していたそうです。

私は、彼の死を悼むと同時にその事実を受け入れられないまま、「自殺でなくてよかった」という思いがありました。
もしも自殺であったら、自分の一言が原因であるかもしれない。防犯カメラで自殺でないとされましたけれど、実際のところは解りません。彼は死んでいるんです。自分の一言で殺してしまったんではないかと不安になる。そんなはずは無いとも思う。彼の父親は「自殺でなかった」と思っている。それを「よかった。私の所為でなくて」と自分の気持ちの落としどころにする。もしあいつの一言が原因だったと言われたら・・・。そんな思いで、落ち着けない日々が続いていました。
こんなことなかなか言えませんよね。聞法の場だから言える。

女性の友人に、亡くなった先輩の婚約者から「今後私は彼の生き様を伝えていきたい」とメールが届いたそうです。
まあ婚約者の方の立場になってみれば、「そういう気持ちも起こるでしょうね」などと、二人で婚約者の心情を思いやりました。
私も彼の死を引きずっていましたので、落ち着けない気持ちを彼女に話して消化したいと思い、「彼の死は悲しいけれど、また会いたいという気持ちもあるけれど、彼の死は成るべくして成ったんだ。彼の死は私に色々なことを考えさせてくれた。勉強させてもらった」と言ったんです。
そうしたら彼女が「勉強という言い方はおかしい」と。気に喰わん。彼の死を冒涜していると非難しました。
そこで「あなたは、彼の死を今後どう考えていくのですか」と訊ねたんです。
そうしたら「私も婚約者のように彼の生き様を伝えていきたい」と。
酒の勢いもあり「ちょっと待て。それはいかにも傲慢だ。いつまでそれを続けていくんですかね」と言ってしまった。当然、彼女は怒ります。失敗です!慰め癒やされる世間話なら、それはそれでいいのですから。「そうですね」と頷いておけばよかった。
こういうことは、皆さんにもありませんか?
でも、それは彼の死を消化したことにはならない。

私達は、予期しなかった事態に遭遇すると、それを解消しようと右往左往する。ところがそれに行き詰まり「いずれの行もおよびがたき身」であると、自力無功と知らされるのです。


 

質問 「先輩の死が自殺でなくてよかった」と仰いましたが、自殺したのかも知れませんよね。先生は自殺でなくてよかったと思いたい。罪悪感から逃れたいのでないですか。
講師 はい。そうです。事実は死んだと言うことです。色々な心が起こってきました。「自殺でなくてよかった」という思いは、これは私のエゴです。心情を整理したいんです。
質問 「よかった」と思う気持ちがわかりません。
講師 自分の所為で死んだ。私が自殺に追い込んだという責任が自分に向かなくてよかったという「よかった」です。
質問 ・・・
講師 そういう気持ちが出てくるんです。彼の死を悲しむのと同時に。死というのも本来はシンプルでしょう。シンプルな事実を複雑化していくのが我々は好きなんです。複雑化するのは自分の妄念妄想です。自分の所為とか、そうでなくて良かったとか、いろいろ考えてしまう。妄念妄想に苦しむわけです。それが断ち切られるんです。「アッ、そうか」と。如来に遇うというか、死が浮き彫りになるというか。そして死が消化される。時間の経過と言うこともあるとは思いますが、そこで初めて自分にとって亡くなった先輩の死の意味が知らされたのです。亡くなった事実に対しては、悲しい出来事として私の中にありますけれど、彼にお育てをいただいたなと。有り難うございましたと、そこで初めて頭が下がるんです。親しい人の死という事実が受けとめられなくて、私達は抵抗しますからね。ところが「アッ そうか」と。
質問 そのように私もなれますかね。聴聞していけばそういう境地に。
講師 難しいですね。
質問 そういう心がダメなんですかね。
講師 私達が求めるのは、救われる方法です。その努力の延長線上に救いがあるわけではありません。ところが自力無功ということになったら、「アッ そうか」と。
質問 私は考えすぎなんですか?
講師 自分の正直なところを喋ることですね。そうしたら誰かが「あんた、その心の奥に何をもっているんだ」と言いますわ。嫌なことを指摘されたら逃げ場がなくなる。それを指摘されないように喋る。嘘を言うわけではないけどそれを隠す。自分の究極のカードを出さないわけでしょ。
仏法聴聞は、自分の究極のカードを出させるためです。


 

去る十二月八日(日)の第三回勝善寺聞法会での副住職法話の一部を聞き書きしました。今回は『歎異抄』二章をもとにした内容でした。
そこに「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と親鸞聖人の信仰が表明されています。そしてその理由として「いずれの行もおよびがたき身」だからとあります。
講師は、親しい先輩の死に遭遇し「いずれの行もおよびがたき身」を知らされた。そのことを「勉強」させてくれた先輩は、善知識(仏教に目覚めさせてくれた人)であったと受けとめています。先輩の死を「消化」するとは、そういうことでしょう。

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