受け入れようが受け入れまいが、死ぬときは死ぬ。
受け入れようが受け入れまいが、死ぬときは死ぬ。
2021.08.09
これは、ふだんから仏法を聴聞しているご門徒H・Wさんからいただいたお手紙の中にあった言葉です。
以下は、ご主人の死が縁となり教えに出遇った喜びが書かれた、そのお手紙です。
どうぞ、皆さんのご感想をお寄せください。
縁がつきれば死ぬと簡単に言ってしまったけれど、「死」について考えてみたんです。
私の夫は、ガン宣告からわずか二年で亡くなってしまいました。
直後は、自分の身体の一部をもぎ取られたような感じ、つらかったです。
どうして私が、こんな悲しい思いをしなければならないのか。
それまで自分の身に起こるとは考えませんでした。人ごとだったんです。
私たちは、誰でも死にます。例外はありません。それは、分かるんですが・・・
もし私がガン宣告を受けたとしたら、ましてや二年足らずで亡くなるとしたら、
平常心でいられるだろうか。恐怖心もあります。死にたくないと思うでしょう。
いただいたご縁だからと、素直に受け入れる事が出来るのか。出来ないと思います。
夫は「俺は、死ぬことはこわくない。やりたい事が出来たから」と言いました。
でも、「こわくない」と言う時点で「こわい」と思っていたと思います。
私に、強がりを見せていたんでしょう。
でも、私が何と思っても、死ぬときは死ぬ。
受け入れようが受け入れまいが死ぬ時は死ぬ。
本当に、ただただいただいて行くしかないんですね。
あるがまま、ありのまま。
私が、この7年間に教えに出遇えた喜びをお話ししたいと思います。
真宗の御本尊である「阿弥陀仏」は、それ以前の仏様が匙を投げた状況を察して「私が救います。私達を憐れんで下さり、救えなければ私は仏に成りませんと誓いを立てられた。その誓いは成就され菩薩から如来になられました。如来の地位にはなかなかなれないみたいです。最後の如来、こんな情け深い大慈悲の仏様がおられますか?私はこの仏様こそ本師・本仏であると信じています。「阿弥陀様」の誓いは成就されておるので、私達が「助けて下さいとか、どうすれば良いのでしょうか」などとお願いする必要はありません。すでに救われているのですから。
「阿弥陀様」の救いの中、お慈悲の中に私達は身を置き「阿弥陀様」の問いかけに「私が見守っていることを感じられませんか」に「私達を決してお捨てにならない。見守って下さっているので大丈夫です」と再確認する。六字の名号は、私と「阿弥陀様」の心が一つになった時です。不安や常識の中でしか生きられない私達こそを救ってくださっているのですから・・・ただお任せします。いやそんな事も言う必要が無い名号を称えるだけです。行き詰まったとき、どうしたらよいんだろうかと思った時は、原点に帰る。阿弥陀仏の示す世界に帰る -だって、この世あの世今在る世界すべておつくりになったのは「阿弥陀様」なのですから、当然私達の存在も遠い過去からのご縁によって生まれ来て、ご縁によって生かされ、縁がつきれば死ぬのです。この世で起こる様々な出来事に一喜一憂し右往左往してしまう、自分が正しいと思う心や人と比べる心や平気で人を傷つける心を自分がもっているんだと言う事に気づく。決っして好い人なんかじゃない事に気づいた時がスタートで「阿弥陀様の願い」、「親鸞聖人のいただいた信心」に向きづけるチャンスだと思うのです。思っているだけですが・・・
「仏法の眼」で感じられたらなあ・・・後はもう死ぬまでお念仏を称えて終えるだけです。
これからも何が起こるか分からないご時世です。
「阿弥陀様」は、私達の思いで生きていく世界をつくって下さっているのではありません。「阿弥陀様」のお慈悲の世界を生きているんだと思わなければ、私達を憐れんで誓い立てて下さった「阿弥陀様」を無視することになります。
六字の名号を称えることは、私達のことを救いたいと切に願って下さった事に感謝をして手を合わせる。「感謝の念仏」だと思っています。
私は勝善寺を訪れた時に何とも良いこころもちがしたのです。
安心感とも言うのでしょうか。その時に「私の居場所はここだ!」
亡き夫が導いてくれたんだと感じたんです。
浄土真宗に出遭えたことは私の誇りです。
これこそ真実の教えだと思うからです。→思い込みです。
池田勇諦先生の言葉
「浄土真宗の寺は、仏さまの教育を受ける教室です。」
代々親から子に繋げていく、仏様の教育は本当に大事だと思います。
「いただきます」は「命をいただく事なんだよ」、そう言うこと一つとっても私もお寺で聞いてなるほどと思いましたから「仏法」は聞くべしです。
ご門徒の方々も家族がおられます。またはおじいちゃんおばあちゃんから息子娘へまたその子ども達に伝えていく、いや伝えるべきです。
「阿弥陀様」の本願に頷かれた親鸞聖人のお言葉を伝え続けて行く懸命な姿勢は、人の心を動かすはずです。
子ども達に未来を託せる世の中であって欲しい。切なる思いです。
千里の道も一歩から
住職の蛇足
このようなお手紙が、一番嬉しいです。
私が感じたことを記します。
「仏様の眼」で、自身が「この世で起こる様々な出来事に一喜一憂し右往左往してしまう、自分が正しいと思う心や人と比べる心や平気で人を傷つける心を自分がもっているんだと言う事に気づく」のですね。自分のこころで気づくのは、反省ですよね。
「私達の思いがつくっている世界」も阿弥陀さんの為業かもしれませんよ。いかがですか?
私は、阿弥陀様のお心を無視し逆らい生きていると感じています。