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門徒のひろば

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「如来の奴隷になれ。他のものの奴隷になる勿(なか)れ」清澤満之師

「如来の奴隷になれ。他のものの奴隷になる勿(なか)れ」清澤満之師

2026.01.04

去る11月15日(土)報恩講日中での、大沢信行氏の感話への報恩講講師 百々海 真 先生の応答です。

 

おはようございます。
岩井の竹内に住み19年になります。最初の一年ぐらいは、仕事をやっていたんですが、ここ十年ぐらいはまったく老人性引き籠もりというんですかね、ほんとうに部屋に籠もりっきりでした。それに見かねた知人が勝善寺の「月曜朝のお勤め」という会があるから行ってみないかと誘われ、今年三月の終わりから寄せてもらっています。
本音を言うと、みな様を前にして、何を喋ったらよいかわかりません。今逃げ出したい心境です。(笑い)ただもう老人で逃げようにも足がついてまいりませんので、取りあえず私が感じたことをお話しさせていただきます。よろしくお願いします。
月曜日朝六時からのこの会に、孫の結婚式で1回欠席しましたので、これまで31回参加したことになります。それと日曜日に「仏教を聞き語り合う会(同朋の会)」というのがありまして、それに四度参加させていただきました。
しかし浄土真宗について、まったく解りません。難しすぎます。正直に言いますと、なんで現代文で書いてくれないのか。現代文で書いてあれば少しは解るのではないかと感じています。
浄土真宗という教えを端的に言えば、建前ではなく本音を語る教えなんだと。本当のことを語り合う教え。そのように受けとめています。
それから、自力では往生できないから他力で「南無阿弥陀仏」と称える。ところがここがまったく解りません。なんで声を出さなければならないのか、心で念じたら駄目なのか、そういうことを考えておりまして・・・。
実は、父親が二部の生まれなんです。ですから子供の時からこのお寺に来ているし、父親が早死にしたものですから、16歳の時から父親の代理で冠婚葬祭に全部来ているんです。そういう意味でここは非常に懐かしい場所です。それと、立派なお寺ということをよく聞くし、今日びっくりしたのは、この報恩講にこれだけの人数の人が集まっている。住職さんはじめ啓蒙運動をきちっとやられているんだなと。しかしとりわけ気に入っていることは、本音で語れると言うところです。
皆さん、清沢満之先生ってご存じですよね。その方の一文に「如来の奴隷となれ。その他の奴隷となること勿(なか)れ」とありました。これだと、合点がいきました。「奴隷」というものが何か分かりませんけれど、「つべこべ言わずに信じよ」と、自分に言い聞かせています。
親鸞聖人は、85歳の時に、「目も見えず候う。なにごともみなわすれて候ううえに、ひとなどにあきらかにもうすべき身にもあらず候う。」と、お手紙に書いておられます。
私は、今85歳です。私も目が見えずみんな忘れて、いろんなこと喋りたいんですが、なかなか出てこない。なんで感話を引き受けてしまったんだろうと・・・。そんなことで、これを最後に、こういうことはやりたくありません。
どうも有り難うございました。

清沢満之先生の『如来の奴隷になれ。他のものの奴隷になる勿(なか)れ」という言葉を、今朝の感話で大沢信行さんが取り上げてくださいました。
「奴隷」という言葉は強烈なので、「やみくもに、いわば狂信的に如来を信じこむ」と受けとめられてしまうと、清沢先生の真意をゆがめてしまう恐れがあります。
「他のものの奴隷になる勿れ」。この一語が、要だと思います。
普段の暮らしの中で、私たちは何の奴隷になっているのでしょうか。言い換えれば、何を主人として仕えているのでしょうか。
私は、スマホの奴隷です。ユーチューブにもハマってます。さらにいえば、それらを大事だと思う「自分の心の奴隷」なのです。
あるいは、「健康が一番大事」、これはお互いに頷けますよね。でも「健康でなければ生きている意味がない」となれば、「健康の奴隷状態」という不健康でしょう。そもそも生きるとは、老病死の厳粛さを生かされることです。「仏さまの智慧」は、その厳粛な現実をありのままに照らし出す光であり、足下落在、地に足を着けよと。
「奴隷」には、必ず「主人」がいます。私が仕えるべき本当の「主人」、それは「仏さまの智慧」です。清沢先生は、「仏智を主人として生きよ」ということを「如来の奴隷になれ」という表現で仰っているのです。
宗教一般、また世間常識では、人間の信仰心を「信心」といいますが、浄土真宗でいう「真実信心」は、私が何かを信じこむ、人間の心境を意味していません。思い込み信心でなく、「智慧の念仏」によび覚まされる時が「信心」です。思いが破られる「一念」、「あ、そうか」という目覚めの一瞬です。一度で終わりでなく、いのちある限り、念仏申す身を賜り続ける救いです。
法話の初めに「他力の救済」という清沢先生の文章を拝読しましたね。そこに「我、他力の救済を念ずる時」と「忘れる時」とあります。「他力の救済」とは、阿弥陀の本願力のことです。
清沢先生も、阿弥陀の本願を忘れて、つまり自分の思いの奴隷になって行き詰り、迷い、真っ暗がりになる時があると告白されているのです。でも迷っているおかげで、目覚める時が到来してくださるのです。「ああ、またお念仏を忘れていたなあ。南無阿弥陀仏」と。忘れていたとの目覚め、それが「念ずる時」です。
浄土真宗が説く真実信心は、我々が思い描く信心とは全く異なることを、どこかでお感じいただければありがたいです。
(「わかります」大沢信行氏の声。)
阿弥陀様を信じるような殊勝な心なんてない、持続しないという私が照らし出される。「阿弥陀さんなんて、どうでもいい」という自分がはっきりする。そういう私を照らし出す光を仰ぐ、それが「念ずる時」の内実なのです。

 

 

 

 

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