人が生きていくことの選択
人が生きていくことの選択
2010.06.27
朝倉和利さん
ただいま、ご紹介をいただきました南房総市の勝善寺門徒の朝倉和利でございます。
私からは、今回の「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」に参加いたしました感想をはじめとしまして、普段、いろいろな葬儀や法事などに触れて感じたことや、疑問に思うことなどについてお話しさせていただきたいと思います。
まず、今回参加させていただきました「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」についての感想ですが、私は父が事故で約15年前に他界するまでは、うちのお寺は勝善寺というのは承知しておりましたが、宗派やその教えがなんなのか、あまり知らないという状況でございました。
15年前の父の他界後、世襲という風習から父の後に、地元世話人という立場となり、少しずつではありますが、その教えの一部を理解してきたところに、今回の講座に自主的とまでは言えず、というか、半強制的というか、参加することになりました。
これまでは、何が本来なのかということが、うっすらとしか感じていませんでしたが、何か方向性としてこうなのかも知れないということを今回、次のように感じました。
所詮、人間である以上、欲望などの煩悩は消えるものではない。それを我慢することではなく、他人に迷惑をかけない中で、いずれ現実的な「死」を迎えるという事実の中に自分は生かされており、その時代の中で、家族も含めた多くの人に支えられていることに気がついて感謝しながら人生を送ることが、本来の人としての生き方であるのではないか。
また、話を聞くという行為をもって、自分自身を考えていくことが大切なのではないか。
間違っているかもしれませんが、今回の講座に参加し、講師の先生の講話をはじめ、座談での皆さんのお話を聞きながら、このように感じたことであります。
実は、私は市役所に勤めておりまして、約5年前に1年間だけですが、福祉関係の仕事をしておりました。
ご承知のとおり、大抵の福祉施策は平等という視点から、その住民の方々の所得状況や生活状況に応じて、画一的に制度を適用するのが一般的でございます。
このような中、ある方に「制度が適用になるからどうですか」と制度の利用をお勧めしたのですが、その方は、「今のままで何とかなるから、世話にはならない」というご返事であり、とうとう制度を利用しないまま、そのお方はお亡くなりになられました。
今、考えますと、平等という視点から行政が制度設計するのは当たり前で、大抵の方々は、それを権利のような感覚でご利用になられます。
ですが、所詮は、それを使うかどうかは個々の判断や価値観なんだと、痛感させられました。
当時は、どうして楽になる制度を利用しないのか理解に苦しみましたが、今、振り返って考えてみますと、人が生きていくことの選択として、世間にお世話になってでも生きていくことより、自分が自分の力で生きていることの方が大切で、ただその選択を自らが選んだことだったのだろうと思うようになりました。
お金というものは必要かも知れませんが、人はそれだけでは生きていけない、いや、それだけで生きていないと感じさせられました。
実は、この3月まで、色々な市役所からの派遣職員で仕事する職場に4年間派遣となりまして、他の市役所職員ではありますが、4年前の1年間、私と同じ職場におり、3年前に元の市役所に戻りました元同僚が、つい先日他界いたしました。
残念なことに、聞きましたら自殺でございました。
話によりますと、元の市役所に戻りまして、約半年後に休みがちになり、半年間や数ヶ月の休職をしながら、復帰して病院に通いながらではありましたが、この1年間は、普通に仕事をこなしていたと聞いていたところでの、突然の訃報で驚いたところであります。
先ほどお話しましたが、福祉制度を利用せず、自分なりに精一杯生きた中で死を迎える生き方を選ばれた方、反対に精一杯生きることに疲れ、自ら人生を閉じてしまった元同僚、本当に生きるとは、そんなに難しいことなのかと、色々考えさせられる出来事でありました。
ただ、無念なのは、この元同僚には、残されたパート勤めの奥さんと二人の小学生のお子さんがおります。このことをいつも考えていたなら、このような残念な結果にはならなかったように思います。
やはり、人が生きるというは、大なり小なり、生きているという中で、その意義や責任があると自分自身は思っておりましたので、非常に悔しい思いでいっぱいです。
終わりに、普段、感じていることをお話させていただきたいと思います。
昨年ですが、親戚の葬式に参加して、あれって思ったことで、真宗のお寺ではないのですが。
ある親戚の葬式に参加し、お寺さんの本堂で告別式を行ったのですが、告別式が終了し、本堂の掲示物を拝見させていただいていたのですが、そこに、当地区の仏教会の取り決めとの掲示が大きく張り出されており、驚いた次第です。
その地区の仏教会の取り決めとして、お布施は、通夜・葬式でこれこれ何十万円以上、四十九日の法事、何十万円以上などなど、各行い事に最低料金が地区の仏教会で平然と取り決められ、また、それを何の戸惑いもなく周知してありました。
私とすると、とても負担できそうもない家庭もあるだろうにと想像してしまいました。
確かに、お寺のご住職だって人間ですから、衣・食・住にお金もかかるので、ある一定程度の喪主の負担もあってしかるべきと思います。
お寺の維持費もかかるでしょう。
しかしながら、思いますが、まるで、最低この金がないと、お経もあげてもらえない、人としてのお別れも十分にしてもらえないよと、お寺自身が周知しているようで、何のためのお寺なのか、非常に疑問を感じたところです。
先ほど、お話しましたが、自殺が身近なところで起き、一部のお寺は、まるで商いに近いような感を抱かせるような時代となりました。
確かに、今の時代は、個人優先主義や多趣味、娯楽の多様化などで、お寺とかかわる時間が序々に希薄になってきているのは事実です。
昔の私のように、お寺は葬儀や法事の時だけの付き合いなんだと思っている人がほとんどではないでしょうか。
結論はありませんが、今後どんな時代になるのかわかりませんが、人が生きるというそのものに、昔のように、お寺がもう少し、人と近くかかわる時代の方が幸せなのかも知れないと感じました。
皆さんは、いかがでしょうか。
私は、選んで真宗の門徒になった訳ではありませんが、結果として真宗で良かったと思っております。
他の宗派について、どうこうではありませんが、せめて真宗のお寺は、お金とかではなく、人を中心におき、人と共に悩み、人と共に歩み、人と共に生き、今後も人と共存していただきたいと強く願うものでございます。
終わりに、本日この「お待ち受け大会」の関係者の皆様方のご苦労に感謝申し上げますとともに、真宗大谷派の関係者のより一層のご活躍をご祈念申し上げ、短い時間の中で話も整いませんが、私の感話とさせていただきます。
どうも、ありがとうございました。
千葉組宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会(2010.6.27)感話 寺報65号より