業縁を生きる
業縁を生きる
2015.07.15
【法語】
卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
宿業にあらずということなしとしるべし。
『歎異抄』
法語は、『歎異抄』にある親鸞聖人のお言葉です。
「兎や羊の毛の先にある塵のような小さな罪(チラッとこころをかすめるような悪意)を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである」(『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター)と訳されます。
犯罪は、思いを超えた無限の因縁の結果、だから犯人の責任ではないと、親鸞聖人は仰るのです。
これは常識では理解できません。犯罪者には、相応の罰が科せられなければならない。それが償いでもあるはずです。
7月2日未明、父親の放火により4人の子どもが焼死する痛ましい事件が起こりました。
犯人は「妻の見送りが無かったから」と供述しています。どこの家にもある些細なトラブルが、この悲惨な事件の原因だったようです。
今後、夫も妻も生涯、罪に苛(さいな)まれ続けることになるのでしょう。
非常識とも思える親鸞聖人のこのお言葉が、地獄のような人生を生きることになった夫や妻に、やがて届くことがあるように願っています。
一方、私たちに向かっては、親鸞聖人はこう仰います。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいをもすべし」(『歎異抄』)と。