仏教聴聞に人々が集まる
仏教聴聞に人々が集まる
2017.02.09
2月4日(土)5日(日)に開催した水島見一先生聞法会に、100人ほどの人々が房州各地から集まり二日間とも満堂となりました。
先生のお話しに、日ごろ自分でも気づかない本当の姿が炙り出され、聴聞者は皆一様に深くうなずいておられました。それは仏教による救いを証明する光景でありました。
一番左の写真は、ご法話に聞き入る方々です。
左から2番目の写真は、一日目に先生がお書きになった心療内科医の池見酉次郎氏の言葉です。
人が死ぬまで明るく生きていくためには「①死ぬまで生きがいのある仕事をもつ②周囲に惜しまれる③永遠に通じるいのち生きているという自覚」が必要だという内容です。
先生は、③は仏教を聴聞しなければできないことだと、お話しくださいました。
左から3番目の写真は、二日目にお書きになった言葉です。
人生は「あたわり(如来からあたえられたもの)」、つまり私たちは「永遠に通じるいのちをあたえられている」という意味です。私たちはその「あたわり」を受けとめられずに、妄念妄想を懐き苦しんでいる。
仏法を聴聞するとそのことがわかり、人生に起こる様々な問題は如来からの「宿題」と受けとめられる。
「あうものに あわな あかん」とは、その「宿題」を受けとめた真宗門徒の言葉です。
一番右の写真は、司会進行をする副住職です。その後ろに住職と責任役員が写っています。
写真はありませんが、世話人や推進員の方々に駐車場係や受付・誘導などをしていただきました。有り難うございました。
水島先生の「仏教がわかるということは、『この私でよかった』とうなずくことです。」というお言葉が、今も私の心に残っています。
あと数年で高齢者の仲間入りをする私ですが、先輩達が口々に「60代はまだまだよかった。70代80代はそうはいかない。」と仰います。若い時のように夢を追う人生ではなく、今は老病死の問題に揺さぶられる人生を生きているということです。やがて私にも如来から次々と「宿題」が出され、その都度この言葉に立ち止まらされることでしょう。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・
6月に再度水島先生を招き聞法会を予定しました。(日取りなど未定)
詳しくは、お問い合わせください。