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住職のことば

なぜ仏法を聴聞するのか?

2018.08.16

なぜ仏法を聴聞するのか? 水島見一先生をお招きして今まで四回にわたり、仏法聴聞をしてまいりました。 新たな聞法会を計画するにあたり、 なぜ仏法を聴聞するのか? このことを共に再確認しようと思い、この水嶋先生の文章を掲載しました。

1 現代社会と仏道

 親鸞が明らかにされた仏道は、過去から今日までの無数の先学や先達方によって受け継がれてきていますが、それが次第に見失われつつあるように思います。私の生活を顧みましても実に呑気なもので、何と求道に縁遠い生活だなあ、と驚かざるを得ないのです。現代は便利で快適ということがモットーとされていますが、その便利と快適が、私たちを仏道から遠ざけていると思わざるを得ないのです。かつては「貧」「病」「争」という生活苦が人々を宗教に駆り立てたと言われていますが、現代では、たとえば少し前に「一億総中流」と言われていたように、生活苦そのものが少なくなっているように思います。しかし、人間が生を享けた限り持たざるを得ない「空しさ」というもの、あるいは「孤独感」といったものは、何一つ変わっていないのです。 人間の最大の苦は、「私が死ぬ」ということでしょうが、その「私が死ぬ」ということも、ターミナルケアなどの発達によって、ずいぷんと苦痛が緩和される時代になってきました。ですから、死が近付いてきたらそういう緩和治療を受ければいいので、死ぬ直前までは健康に留意して快適な生活を送りたい、というのが、多くの現代人の考えることだと思います。

しかしその一方で、自殺者が年間三万人を超えているということも現代社会の抱えている大問題でしょう。特に六十歳以上の高齢者の自殺が、最近の統計では十万人あたり二十一人ということで、深刻な社会現象となっているのです。長生きするのも大変な時代でありまして、たとえば老老介護というものも現代の日本社会における大きな課題になっています。『大経』下巻の三毒五悪段にあるような、人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り來りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。 (『真宗聖典』六〇頁) という事実は、いかに便利で快適な現代社会においても、決して免れることのできないものであります。このように私たちの人生は、根源的に「空しさ」とか「孤独」というものを抱えているのです。

そしてその「空しさ」や「孤独」は、「私が死ぬ」ということによって引き起こされているのです。死ぬことが与えられているから、私たちは自分というものの存在意義を確かめたいのではないでしょうか。私が人間として生まれたことの意味を知りたい。ここに私たちの根本的な要求、つまり宗教心があるのではないでしょうか。この宗教心を切り開くことが、現代人の火急の課題のように思います。 真宗大谷派は「生まれた意義と、生きる喜びを見つけよう」という標語を掲げています。これは、現代社会においては実に重い言葉なのです。私たちは、この世に生まれてきて満足だということを、心の奥底から言いたいのですが、それがわからないのではないでしょうか、「人間として生まれて良かった。このような時代に、この家に生まれて、この伴侶を得て、そしてこのような子どもを授かって、そんな私で良かった」と言えるような人生を送りたいのではないでしょうか。あるいは、病気をしたり不幸な事件に遭遇したりしても、最終的には、「それで良かった」と言えるような人生を送りたいのではないでしょうか。そのためには、「生まれた意義と、生きる喜び」を、自分の中にはっきりさせなければならないのではないでしょうか。

2 後生の一大事
 そのためには、聴聞の場に足を運ばなければなりません。それも、暇な時に聴聞するというのではなく、どんな忙しい用事があったとしても、それを差し置いてでも聴聞するという意欲が必要なように思います。自分の都合に合わせた聴聞ではなく、また自己保身のための聴聞でもなく、そんな身勝手なことを考える自分という殼を破って聴聞するのです。「後生の一大事」という言葉がありますように、人間として生まれた限り、何としても一度は「生まれた意義と、生きる喜び」を自分のものにしなければならないのでありまして、そういう人生の一大事を何としてもわかろうという宗教心の躍動です。

ここに求道の第一歩があるのです。 高光大船に師事した石川県松任(現白山市)の坂木恵定先生が、ある法座でこういうことを言っておられました。「あなたたちの中で法座に來たくないのに来た人もあると思うが、ここに足を運んだというだけで九割は救われているんだ」と。イヤだイヤだと思いながらも法座に足を運んだだけで、九割は救われているのだと。しかし、残りの一割が実は大変なのです。残りの一割、つまり信心をいただくということが、なかなかの難事でありまして、イヤだという思いを破って聴聞の場に足を運ぶということは、そのためのものであります。

信心という残りの一割をはっきりさせるためには、自分の都合を顧みないで求道するという決断が必要なのです。そういう決断があれば、九割は救われたと。ここではじめて、残り一割の信心獲得の悪戦苦闘がはじまるのではないでしょうか。闘いがあります。信心獲得の闘いです。清沢満之でいえば、当時の死に病であった結核の身を抱えて「自己とは何ぞや」と問い続け、その中からの「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に此境遇に落在せるもの」という自己を発見されました。絶対無限に乗托する自己の発見のために、清沢満之は実に激しい求道を実践されたのです。

さらに親鸞でいえば、 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。 (『歎異抄』『真宗聖典』六四〇頁) と言われるような、そくばくの業を抱えた私であり、そのような私一人において弥陀の本願をいただいた、という自己の発見でしょう。「罪悪深重煩悩熾盛」と言わざるを得ない自己において如来本願のはたらきをいただいた、ということです。

このような自己の発見が聴聞です。聴聞して、宿業の身の私ということが知らされると同時に、その身は本願によって証明されている自己であったと知らされるのです。求道において私たちは救われがたい闇の中の自己を知ると同時に、その闇の自己だからこそ如来のはたらきを実験することができるのです。宿業の身こそが如来のはたらきの場所であった、との自覚です。蓮如でいえば、阿弥陀如来が我が宿業の身において「ご身労」しておられるということです。ここに聴聞の関門があります。 かつては、「仏道のためには、たとえ食わなくても良いのだ」という思いをもって求道する人がたくさんおられました。高光大船は、「食べていくために働くのが忙しくて仏教を聞いている暇などない」と言う人に、「あなた、何故食べるのか」と問うのです。

その人は当然、「それは生きるためです」と答えるのです。「そう言うけれども、あなたは食べても死ぬだろう。むしろ、食べなくて死んだ人はそういないよ。それよりも、食べて病気になって死ぬ人の方が多いのではないですか」と言うのです。高光大船は、聴聞より仕事優先、つまり食べることを優先する人に向かって、「あなた、それで良いのですか。大切なもの、忘れていませんか」と警告しているのです。私たちは、一生懸命健康に気を使って、日頃から食べ物を選んで食べているかも知れませんが、それでも一日一日間違いなく死ぬ方向に向かって進んでいるのです。健康に気を使った人が長生きするとも限りません。

また長生きしても幸せとも限りません。人生の実相は空しいに違いないのですが、私たちはそれに目をつむっているのです。 ですから、食べることよりも仏法が大事だということです。三帰依文で言いますと「大道を体解して、無上意を発さん」という意欲的な聴聞をせよ、ということです。そういう先達方の不惜身命の聴聞道によって、今日の私たちにまで仏法が伝えられているのでしょう。ここに、最初のテーマを「求道」とした意味があります。

現代ではそのような聴聞が、きわめて少ないように思えるのです。聴聞そのものが難しいのではなく、私たちの便利で快適を求めたいという思いが、聴聞したいという意欲を上回っているのです。だから教養仏教はさかえますが、それは人間のアクセサリーです。現代はアクセサリー仏教が全盛の時代になっているのです。 (『苦労はいいもんや 聞法の生活』水島見一より)

 

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