念仏は、阿弥陀仏の行
念仏は、阿弥陀仏の行
2018.11.10
弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなうべし
当寺報恩講日中法要では、『正像末和讃』第53首目のこの和讃から6首の和讃を引き同朋唱和します。最後は「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」と、皆さんでよく歌う「恩徳讃」として知られている和讃です。
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衆生を漏れなく摂取する阿弥陀仏の大悲をいただいている人は皆、いつでもどこでも南無阿弥陀仏を称えよと。
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「寝る時と目が覚めた時に、私は念仏を称えています。それで、一日中が南無阿弥陀仏になります」。
そんなことを近田昭夫先生が、お話しされていたことがあったなと、フッと思い出されました。
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蓮如上人も「かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」と『御文』で仰せです。
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これはずいぶん前のことですが、和田稠(しげし)先生が、「『ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは』と蓮如上人が仰せだが、あんた方、ちっとも念仏してないじゃないか」とお話されたことがありました。「なるほど、そうだ!」と膝をうったことがありました。
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「念仏を、どのような心持ちで申せばよろしいのか」と座談会などで時々話題になります。
「感謝の念仏をしています」とか、「無心で念仏しています」か、「心をこめて」とか色々あります。
みなさんは、どうですか?
本堂の後ろで仕事をしていると、お参りしている方の声が聞こえてくることがあります。
お孫さんにお賽銭を渡して「ちゃんと南無阿弥陀仏とお願いするんですよ」と。
これらはこれらで、みな大切なことです。
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だいぶ前に池田勇諦先生がされたお話しが印象に残っています。
それは、愛知県常滑市の山下成一という熱心な聞法者の話しです。何人かの人が輪を作って語り合っている時に、ある人が山下さんに「あなたは仏法を聞いておられる方だけれど、お念仏を申されませんね。あなたのお念仏の声を聞いたことがないですね」と遠慮会釈なく訊ねたそうです。すると山下さんは即座に「身体が念仏しとる」と返されたそうです。
『安心決定鈔』に「念仏というは、(略)われらが称礼念すれども、自の行にあらず。ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなり」とあります。こう感覚されていた方だったから、「身体が念仏しとる」と口について出たのでしょう。
同書には「わがいのちすなわち無量寿(阿弥陀)なり」とあります。東京教区の教化テーマ「今、いのちがあなたを生きている」ということです。
南無阿弥陀仏と口にしようがしまいが、もともと阿弥陀と私は一体です。
だから親鸞聖人は、「ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」と。