うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ②
うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ②
2019.02.02
この和歌は、五帖の『御文』一帖目第一通にあります。蓮如上人は、浄土真宗の信心、すなわち「他力の信心」をいただいた喜びを表現した和讃として、ここに引用されています。
前回は、蓮如上人がこの和歌を引用された背景について探りました。今回は、蓮如上人が『御文』を製作した意趣を探ります。前回と同様に香月院深励師の『御文一帖目初通講義』に依ります。
「御文は何のためにつくりたまうや」というと、
1 当流の正義を解し易からんため
蓮如上人は、一文不知の輩までも早く合点するするようにとの思いで制作なされ、人々を教化されたのである。であるから漢文や和語の聖教の中から百あるものを十に選りすぐり十あるるものを一つに選りに選って、軽々と御教化されたのが五帖の御文なのである。
2 末流の異計(異安心)の「邪」を翻すため
蓮如上人の時代は、開山聖人滅後200余年が経ち諸国の門末に種々の異安心が起こり、当流の正義がわかりにくくなってしまっていた時代であった。当時流布していた異安心は下記など。
(1)不拝秘事(『御文』三帖目第三通)
信心を得てからは、このわが身がもはや色も形もない無上仏になったので、絵像や木像は拝む必要はない。
(2)十劫秘事(『御文』一帖目第十三通)
十劫の昔に阿弥陀仏が成仏した時、すでに衆生の救済も成就されているのであるから、それを忘れないのが信心である。(『真宗新辞典』)
(3)善知識だのみ(知識帰命)
特定の人物を善知識と仰ぎ、善知識が現実に現れた如来であり、如来は具体的に善知識に代表されるとして、善知識をたのみ、善知識から信心が与えられるとする。(『真宗新辞典』)
(4)世間に流布して、ただ何の分別もなく念仏を申せば助かるように思って、信心なしに念仏を称え、これでよいとする。
(5)三業異計
身業にて仏に向かって合掌し、口業には「おたすけください」と申し、心にはもちろん「助け給え」と思う。この三業そろえて弥陀をたのみたてまつることが、一念帰命の信心だと。
(6)浄土宗鎮西派の念仏の影響
心に「助けたまえ」と思い口に「南無阿弥陀仏」と称える。
香月院深励師は、「誠に御一宗が現在に至るまで繁昌しているのは、まったく蓮如上人がこの御文を御制作されたからである」とし、さらに、実如上人以来代々の善知識(今の御門首)は「この五帖の御文を以て諸有門末を御教化なされてきた。そのことは蓮如上人から実如上人への御遺言であった」と記している。
そして五帖の御文の大意は「高祖聖人の教行信証を依拠にして浄土真宗一流の御教化はただ信心をもって肝要とする」であると述べています。
その『教行信証』撰述の由来は、「常州稲田において一宗御開闢の時節到来して、道俗跡をたずね貴賤巷にあふるるとき、救世菩薩の告命いま符号せりと悦びたまいての御撰述」なされたと説明しています。
さらに香月院深励師は、「蓮如上人は中興復古の念願力を奮わせられるに就いて、源へ戻られたのである。つまり真宗根本の『教行信証』を拠として末世末代までの凡夫往生の鑑として御文を御製作なされたということ、否とはいわれぬ義なり」と断定しています。
次は、「浄土真宗一流の御教化はただ信心をもって肝要とする」の信心が親鸞聖人が『教行信証』で顕された「信心」と同じであることを、『御文一帖目初通講義』で探ります。