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住職のことば

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うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ③

うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ③

2019.02.11

この和歌は、五帖の『御文』一帖目第一通にあります。蓮如上人は、浄土真宗の信心すなわち「他力の信心」をいただいた喜びを人々に伝えたく、ここに引用されたにちがいありません。

前回は、蓮如上人が『御文』をお作りなさった意趣は、「浄土真宗一流の御教化は、ただ信心をもって肝要とする」ことを人々に伝えるためだと結論しました。

今回は、その「信心」と親鸞聖人が『教行信証』で示された「浄土真実の行」により発起する「信心」(「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(『真宗聖典』210ページ))の関係を、香月院深励師の『御文一帖目初通講義』で探ります。

香月院深励師は、まず次の二つから『教行信証』を「信心を肝要」と明かしている書であると押さえています。

①『教行信証』では教巻・行巻・信巻・証巻の中で信巻だけを本末二巻にして、「信心」を委しく明かしている。『真宗聖典』では分けてありませんが、存覚上人の『六葉鈔』以来「信巻」を「本巻」と「末巻」に分けるスタイルが取られてきた。(池田勇諦『『教行信証』に学ぶ』七 4ページ)伝統があったようです。

②教・行・信・証の四法を「行信の次第」で述べている。このことは、阿弥陀如来の行(南無阿弥陀仏)が「信心の体」であると明かしている。

だから『教行信証』は「信心を肝要」としている書であると。

蓮如上人は、『御文』二帖目三通で「祖師聖人御相伝の一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり」(『真宗聖典』782ページ)と言い、二帖目二通では「そもそも開山聖人の御一流には、それ、信心ということをもってさきとせられたり」(『真宗聖典』778ページ)と言い、五帖目十通では「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせら候」(『真宗聖典』837ページ)とある。その外全体80編で「たのむ一念の信心を肝要」と勧めらている。

これは『教行信証』の意趣を丸承なさっているのである。

蓮如上人は、『教行信証』を根拠として『御文』作成したので、「信心を肝要」と勧められたのである。

そして蓮如上人は、「信心」を勧める際に必ず「名号のいわれを聞き開いて信じよ」とお示しになっている。これは『大経』下巻の本願成就文「聞其名号信心歓喜(「諸仏の讃嘆したまうこの名号のいわれを聞いて信心を起し、身にも心にも歓喜んで)」(『教行信証講義 信証の巻』779ページ)に依拠している。

この「信心」は、浄土宗西山義で言う「仏体を信ずる」ことではない。「南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信ずる」のである。蓮如上人は『御文』でそう勧めている。この「南無阿弥陀仏」は、「浄土真実行」「選択本願の行」つまり阿弥陀仏の行である。その行を信ずる「信心」である。

また蓮如上人は、『御文』の所々の信心を勧める文の前に「雑行をすてよ」と仰せられている。二帖目七通には「もろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす」(『真宗聖典』785ページ)とある。「正行に帰する」とは「南無阿弥陀仏の大行を信ずる」ことである。これは浄土真実行により信心が発起するということである。「口に南無阿弥陀仏と出せばよい」とばかり勧めている異安心の者たちは、「雑行をすてることで初めて南無阿弥陀仏と称えることになる」と言うが、これは蓮如上人の思し召しとは違う。帖外御文第二巻文明六年六月二十一日の御文に「雑行をすてて正行に帰する。その正行というは南無阿弥陀仏の名号、その名号を行者が信ずるゆえに名号を信心の体とする」のだということが蓮如上人の御意である。

これらの説明の仕方を見れば、『御文』の行信の取り扱いは第十七願の(諸仏称名の)名号(南無阿弥陀仏)を第十八願の信心で信ずる、とのお示めしである。これは『教行信証』行信二巻の精要である。

行巻には第十七願の行が「諸仏称名の願」と標挙してあり、信巻では「至心信楽の願」と信が標挙してある。行信と次第するのは、第十七願の行を第十八願で信ずるからである。この「信心」を「尼嫁の愚かな者が合点がゆくよう勧める」のが『御文』である。


以上のように香月院深励師は、蓮如上人が、一文不知の輩までも早く合点するするように、親鸞聖人がお書きになった『教行信証』などの聖教の中から百あるものを十に選りすぐり十あるるものを一つに選りに選って、お作りなさったのが『御文』であると述べています。

浄土真宗の信心は、「南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信ずる」とありました。文明六年十月二十日書之蓮如上人は、二帖目十一通では「われらが往生すべき他力信心のいわれをよくしらずは、極楽に往生すべからずなり」(『真宗聖典』790ページ)とありますし、「名号のいわれ」を『御文』三帖目六通で次のように述べています。

「それ南無阿弥陀仏ともうすは、いかなるこころぞなれば、まず「南無」という二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」というは願なり。「阿弥陀仏」というは行なり。されば雑行雑善をなげすてて、専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもう帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したまうなり。このこころすなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。これによりて「南無阿弥陀仏」という六字は、ひとえに、われらが往生すべき他力信心のいわれをあらわしたまえる御名なりとみえたり。このゆえに、願成就の文には「聞其名号信心歓喜」(大経)ととかれたり。この文のこころは、その名号をききて信心歓喜すといえり。その名号をきくというは、ただおおようにきくにあらず。善知識にあいて、「南無阿弥陀仏」の六つの字のいわれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆえに、信心歓喜というは、すなわち信心さだまりぬれば、浄土の往生はうたがいなくおもうてよろこぶこころなり。このゆえに弥陀如来の五劫・兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまうことの、ありがたさ、とうとさをおもえば、なかなかもうすもおろかなり。されば『和讃』(正像末)にいわく「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」といえるはこのこころなり。また『正信偈』にはすでに「唯能常称如来号  応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住座臥時処諸縁をきらわず、仏恩報尽のために、ただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

※南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり

(「正像末和讃」50 『真宗聖典』504ページ)

「意訳 南無阿弥陀仏の回向は、その恩徳まことに広大不思議である。如来は二種の回向を成就され、往相回向によって私たちを浄土に往生させ、さらにこの世にかえってきて、衆生を救済する還相回向に転入させてくだされる。」

「語句 ○南無阿弥陀仏の回向-南無阿弥陀仏の名号に、往還二種の回向を成就して、衆生にこれをあたえることをいう。○往相回向の利益-浄土に往生して涅槃のさとりをひらくこと。○還相回向に回入-彼の浄土に往生すると、自然に還相回向のはたらきを起こすことをいう。」

(『三帖和讃の意訳と解説』高木昭良著)


 「名号のいわれを聞き開いて信じよ」は、『大経』下巻の本願成就文「聞其名号信心歓喜(「諸仏の讃嘆したまうこの名号のいわれを聞いて信心を起し、身にも心にも歓喜んで)」(『教行信証講義 信証の巻』779ページ)に依拠しています。

親鸞聖人は、『教行信証』「信巻 信一念釈」で第十八願成就文を文証としてあげ、その後の御自釈で「『(仏説無量寿)経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」とうなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。「歓喜」と言うは、身心悦予の貌(かおばせ)を形(あらわ)すなり」とお述べになつています。

「仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」が、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。

それに頷けた「時剋の極促」が「信楽開発」であり「広大難思の慶心」(『真宗聖典』239ページ)です。

それが『仏説無量寿経』の衆生往生を説いた「下巻」最初に、往生正定聚の益を示し諸仏が共に讃嘆していることを顕し、その次ぎに念仏往生を明かした言葉「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念」です。

そしてその根拠が「至心回向(心を至し回向したまえり)」。

であるから「願生彼国 即得往生 住不退転」と、しかし「唯除く五逆 誹謗正法」であると。


 

次回は、「身にもあまりぬるうれしさ」すなわち「聞其名号信心歓喜」の「歓喜」を香月院深励師の『御文一帖目初通講義』で探ります。

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