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住職のことば

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うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ④

うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ④

2019.02.13

「これは、『御文』第1帖1通目(真宗大谷派『真宗聖典』760ページ)に引用されている和歌です。この御文は元旦に毎年拝読しますし『御文』五帖は繰り読みされますので、一年間に5回は目にします。「他力の信心をいただいた喜びは別物!』という内容の和歌ですが、皆さんは、そんな喜びはありますか?」と、このシリーズのはじめ(①で)に皆さんに問いました。

香月院深励師は、「身にもあまりぬるうれしさ」は『仏説無量寿経』下巻第十八願成就文「聞其名号信心歓喜」の「歓喜」とも、流通分にある「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念」の「歓喜踊躍」とも仰います。

蓮如上人はこの『御文』で「うれしさをむかしはそでにつつむ」といえるこころは、むかしは、雑行・正行の分別もなく、念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。「こよいは身にもあまる」といえるは、正・雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうえに、仏恩報尽のために念仏もうすこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり」(『真宗聖典』761ページ)と説明しています。

今回は、「身のおきどころもなく、おどりあがるほど」の嬉しさについて、『御文一帖目初通講義』で探ります。


香月院深励師は、『大経』流通分の「歓喜踊躍」について親鸞聖人は「「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちて、かねてよろこぶこころなり。「踊」は、天におどるという、「躍」は、地におどるという、よろこぶこころのきわまりなきかたちなり」(「一念多念文意」『真宗聖典』539ページ)と注釈し、「歓喜」というは心の内に喜び、「踊躍」というは形に顕れた喜びと分けてあると述べています。また、『大経』第十八願成就文の「歓喜」についての注釈には「「歓喜」というは、「勧」は、みをよろこばしむるなり。「喜」は、こころによろこばしむるなり。うべきことをえてんず、とかねてさきよりよろこぶこころなり」(「一念多念文意」『真宗聖典』534ページ)で注釈しています。

香月院深励師は、そうであるけれど「踊躍」とあるからといって、強ちに形におどりあがることのみではない。おどりあがるほどの思いになって喜ぶ心の極まりなき貌(かおばせ)であると述べ、田舎にある道場の中には、片律儀に心得そこなった者がいて「歓喜踊躍とあるからおどることがなければ本真のことではない」と言って報恩講に寺の本堂にお参りして盆踊りのようにおどる者があるということ、これは心得そこないであると補足しています。

そして「(嬉しさが)身にもあまりぬるかな」は、「おどりあがるほどにおもうあいだ」とあるのだから、形はじっとしていても「おどりあがるほどの嬉しさだ」と押さえています。

その上で、香月院深励師は『大経』流通分の「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念」(『真宗聖典』86ページ)とあることに不審があると仰います。

それは何故かというと、「御同行の有様を見ていると宿善到来して本願を信じ念仏を申すようになった者でも、天に踊り地に躍るほどに喜ぶ者がいるようには見えないからである」と。また「田舎の御同行などには、しみじみと喜んでいるように見える者もいるけれども、私ども坊主分をはじめとして御家中(大谷家?)の方々に至るまで聞きがたく有り難い御法義を聞き慣れ当たり前のことにしてしまっていて、それほど心の底からしみじみとおどりあがるほどの喜びが湧かない」と述べ、さらに「私の心底を省みても、ご門徒には「信心をとって喜びなさい、喜びなさい」とすすめているが、自分の心中にはしみじみと喜ぶ心が起こらない」と。

「このことは、親鸞聖人の御教化に違っているのではないかと不審だ」と問題提起しています。

勧門と誡門の二門による教化

香月院深励師は、この「不審」を窺うにとして、「勧門」「誡門」二門の御教化について述べていきます。

勧門は、「ただ信心を得よ」と勧める御教化ということです。

誡門は、「喜ばれぬことはけしからぬことだ。信心がないからだ」と叱る御教化ということです。

法然上人は「本願の疑わしきことも無し極楽の欣ばしからぬにてはなけれども、往生一定と思いやられて疾く参りたき心の朝夕はしみじみとも覚えないことは、実によくないことである」と『和語灯録』で誡められている。

この法然上人の誡めについて「しみじみ喜ぶ心がないのであるから、それは浄土参りをいそぐ心がないということだ。苦しい娑婆だということもおおよそ解っているし、楽しみずくめの浄土と知ったならば、浄土参りをいそぐ心も起こりそうなものだが、何歳になっても、いつまでも自分は生き延びるように思い込んでいる。これはもとから喜ぶ心が無いからである。これをよからぬこと叱るのが、誡門の御教化であると香月院深励師は詳しく解説しています。

さらに、浄土の法門の有り難いことを朝夕聴聞しながら、「聞けども聞かざるが如く」、身の毛の立つほどに喜ぶ心が無いのは三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちていた感覚がまだ残っていて、それは三悪道にまた堕ちる相だと誡める御教化であるとも述べている。

一方、法然上人は「心のしみじみと身の毛の立ち涙の落ちるのみが信の発起したあらわれであるということは、僻事である。そのようなことは無くても支障は無い」とも『和語灯録』で仰っています。この「喜ぶ心」が無いのは、信心が無いからだと叱るのは、僻事であると御教化するのが勧門であると香月院深励師は述べています。

そして、信というは疑いに対する心であって、疑いを除くことを信と申すのであると押さえ、「喜ぶこと」が信心ではない。「疑いはれて信ずる」が信心であると述べている。

だから、疑いなく信ずることが肝要で、その上に「歓喜の心」が起こるならば、なおいっそう勝れたことであると勧めるのが勧門の御教化であると香月院深励師はまとめている。

そして、誡門と勧門の御教化があるのは、喜ぶ心の無い二種類の行者がいるからであると言います。

①無宿善の機 

『浄土見聞集』に「往生の定まりたる「しるし」として慶喜の心が起こるものである。慶喜の心の起こる「しるし」には報恩報徳の思いがある」とある。信心を得て往生が定まる「しるし」は慶喜心である。だから喜びの無い者は、信心を得て往生が定まったということがないということである。煙の無い火は真の火ではないし、波の立たない水は真の水で無い。いくら聴聞しても無宿善の機は、信心を得ぬゆえに喜びが無いのである。

この機に対しては、「喜ばれぬのは信心が無いからだ。早く信心を得よ。喜び方を習ってでも喜べ」と誡門の御教化がある。

②煩悩強盛の機

一方、信心を決定して往生一定の覚悟はしているが、あまり煩悩が強盛なので、煩悩が障害となって喜べない者もいる。この者に対しては「喜べないことも苦しからず。それを気にかけることは無い。阿弥陀の誓いを疑うな」と誘いたまう勧門の御教化がある。そして、そ『歎異抄』の「よろこぶべきことをよろこばせざるは煩悩の所為なり。(略)これにつけてもいよいよ大悲大願はたのもしく往生は一定と存じそうらへ」(『真宗聖典』629~630ページ)という親鸞聖人の唯円坊への御教化は、この勧門であると香月院深励師は述べています。

念仏申しても喜びが無いことについて、この勧門と誡門の御教化を一人ひとりが我が身に引き当てて考えてみる必要がある。

「喜ばなくても支障が無い」と御教化をいただいた者が、「喜ばないことがよいのだ」と開き直るのは信心をいただけてないからである。逆に「信心があるなら喜べ」というお言葉を聞いて「喜べないから自分は浄土参りはできない」と疑うならば、これも信を得たのでは無い。御教化通り間違いなく了解して、信心決定することが肝要である。

それには、幾度も幾度も聴聞して我が了解が御教化に背いていないならば「喜べなくても」信心は得させてくれているのである。喜べるはずだと思ってもそれが喜べないのは、煩悩の所為だ。その喜べないことにつけて、如来の悲願はこの煩悩具足の身のためであると思って、いっそう大悲広大の御恩を知り、わが身の浅ましさを恥じ入っていや増しに仏恩報謝の念仏を勤めなければならないと、香月院深励師はまとめています。


 

仏恩報謝の念仏

他力の行者の称える称名は、称えた功徳で如来の恩を報じ尽くそうということではない。『報恩講私記(式文)』に「たとえ万劫を経とも、一端をも報じがたし、しかじ、名願を念じて彼の本懐に順ぜん」(『真宗聖典』738ページ)とあることを、たとえ千劫万劫報謝の行を修したとて、如来の御恩に比べては「九牛が一毛」にも足らぬけれども、今仏恩報謝に称える称名は、もと選択本願の称名ゆえ、仏の本意にかなうという意味では、御恩を報じ尽くす義があるなり。世間のことでも、むこうからくれたものに比べては百分の一にもならぬ劣りたものでも、向こうの気に入るものを礼にやれば礼返しになると、香月院深励師は解釈しいます。

さらに、衆生がどうぞ称え易いよう持ち易いようにとの御思召で御成就の南無阿弥陀仏を、念仏行者が称えるゆえ、いかなる報謝の行を修するとも、仏の本意に叶は念仏より外にないと結論しいます。

 


喜びがあろうが無かろうが、「南無阿弥陀仏」と申すことが仏御報謝なのですね。

「うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ⑤」でまとめます。

 

 

 

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