• Home
  • 念仏申す生活を
  • 勝善寺を知る
  • 法要と行事
  • アクセス・お問合せ

住職のことば

住職のことば

うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ⑤

うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな ⑤

2019.02.17

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよいは身にもあまりぬるかな

この和歌について、① ② ③ ④と香月院深励師の『御文一帖目初通講義』に尋ね探ってきました。今回は、そのまとめです。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と、「往生極楽のみちをといきかんがため」に「十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして」関東から訪れた門弟たちに、ご自身の信心をお話しになったと『歎異抄』(『真宗聖典』626~627ページ)に唯円大徳はお書きになっています。

このことから、親鸞聖人御在世の時代から浄土真宗の「信心」が門弟達の間で混乱していたことがわかります。親鸞聖人の没後になると「自見之覚悟」により他力の宗旨を乱す者がいても、御在世の時のようにそれを正すことができません。そのような時代に唯円大徳は「耳の底に留まる」親鸞聖人の教えを「一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて」(『真宗聖典』641ページ)『歎異抄』を著されたのでした。

蓮如上人の時代になると、さらに混乱はひどくなり異安心の念仏や浄土宗鎮西派の念仏が世を覆い、親鸞聖人が開顕された他力信心の念仏が僧侶も門徒も不明瞭な乱状態であったと思われます。「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う」(『真宗聖典』837ページ)と、蓮如上人があらためて言わなければならなかったわけですから。

現代も、同様だと私は感じています。

「他力の信心」いただいたいることを前提として僧侶も・教団も活動しているが、その前提が怪しい。互いの信心を語り合うことができないでいる。そのように感じています。

さて、蓮如上人はこの和歌を引用し「念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつる」自己満足の嬉しさと「他力の信心」をいただいた「今宵」の嬉しさとは格別。だから「他力の信心を獲得せよ」と『御文』の先ず始めに御勧化しているのです。

この喜びを、『大経』では「歓喜踊躍」と表現し、それを香月院深励師は「身体はじっとしていても躍り上がるほどの嬉しさだ」と『御文第一帖初通講義』で述べていました。

親鸞聖人は、『教行信証』で「広大難思の慶心」(『真宗聖典』239ページ)と、『正像末和讃』では「不可称不可説不可思議の功徳」(『真宗聖典』503ページ)と仰います。

ですから、この格別の嬉しさを表現することは不可能なのですが、「自力の執心から解放された時の味わい」と、今は思っています。

その「味わい」は、「時剋の極促」、ほんの一瞬です。親鸞聖人が「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(「一念多念文意」『真宗聖典』545ページ)と仰いますが、私は毎日の生活に「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなく」している自分を教えられます。その「時剋の極促」の味わいは、「身にもあまりぬるかな」であります。

 

「信心獲得」ということ

五帖目第十一通に「当流には、信心のかたをもってさきとせられたる、そのゆえをよくしらずは、いたずらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがうべきなり。それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるというも、別のことにはあらず。「南無阿弥陀仏」の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』にいわく「聞其名号 信心歓喜」(大経)といえり。善導のいわく「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀というはすなわちその行」(玄義分)といえり。「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」という四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたまえるいわれが、すなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいうなり。これすなわち他力の信心をよくこころえたる、念仏の行者とはもうすなり」(『真宗聖典』838ページ)

『御文』五帖目第五通に「信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処に、発願回向のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就」ととけり。されば無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退のくらいに住すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

※「信心をとる」「信心獲得」とありますが、これは「信心決定」と同じことです。

 

« 一覧へ戻る

住職のことば

ʐ^M[

Ƃ̂ A[JCuX

^@Jh@{莛

^@Jh

^@

ǂ݂ܐȁ@TOMOԂ

y[W擪