法事を勤める心
法事を勤める心
2019.05.10
無(む)慚(ざん)無愧(むき)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥(み)陀(だ)の回(え)向(こう)の御名(みな)なれば
功徳は十(じつ)方(ぽう)にみちたまう
『正像末和讃』より
※「無慚愧無」は、慚愧が無い、罪を恥じることを知らないこと。
平成から令和に元号が改まり、十連休も終わり、日常が戻ってまいりました。
さて、母の命日が近づいてきた所為か、松原祐善師の次の文章に目が止まりました。
母への祈念
五月三日といえば戦後は憲法記念日として国民の大切な祝日となってきているが、実はこの日は私は忘れることの出来ない母の命日なのであります。年を重ねるに従い亡母への思慕というのか、この頃は母に対する祈念が切実になって来ました。私の母は四十才でこの世を去ったのでありますが、もし母が現在もこの世に生を得て居られるとすれば、もう古稀もすぎて腰も曲った白髪の老婆になって居られることに相違ないが、しかしそういう老婆の姿で私は自分の母を想像することがどうしても出来ないのであります。いつも自分に生きて懐しく思い出されてくる母は三十代の若い姿の母であり、そして何年たっても少しも年をとられることがないのであります。そのことは母が四十才の若さでこの世の姿を消してもうその上はこの地上で年をとられるということがないことになったからでありましょう。しかしその姿は見えないが、母は永遠に私自身に生きて現在しているのであります。私はこの母の手に支えられて今日まで幾度か出逢ってきた生活のいきづまりや生命の危機にも自暴自棄になることから免れて、己を捨てて何よりも現実の事実を受けとることを学ばしめられて来ました。私の父は晩年には円満ぶりを見せていたようでありますが、性来融通のきかない、その点は私も父の性格をそのままうけて来ているが、頑固な一徹ものでありました。貧しい寺の坊守としてこの父に嫁して来た母の生涯はなかなか苦労が多かったのです。恐らく私の母はこの人生に希望などいうことはかけらも持ち合せがなかったであろうかと思われます。全く忍従の二字がその歩みでありました。しかしその忍従に後悔の跡を少しも残しませんでした。母は母なりにこの世にこの世以上の人生の意義を見出していました。無常を無常と知ってこの世に求むることをせず、しかもこの世を愛して命限りにこの世の現実に仕え挺身していったのであります。
母の死は私が田舎の郷里の中学を卒えてたまたま京都に出ました当初、一ヵ月後のことでありました。当時既に母は病床にあったのでありますが、のん気ものの私にはそれがそんなに重病であったとはつゆ知らなかったのであります。臨終の床に父は母に対して遺言はないかとたずねました。なんにもないというのが母の答えでした。次に父は京都に出た長男を呼びたいがと言葉をかけてみたのですが、一ヵ月前、彼の出発のとき私はこの世の別れを済ませました。仏法の一大事の勉学に出かけたのですから、会いたくありませんというのが、父から聞かされた母の最後の言葉でありました。幾とせを重ねてもこの母の言葉の前に頭の上げようのないのが私の今日の姿でございます。今にして一大事が一大事として起たないのであります。まことに慚愧の至りです。幸いに今年の母の法要にはめずらしく金沢のT師をお招きすることが出来て、法話をいただくことが出来たのは何よりの喜びでしありました。
(『松原祐善講義集』第四巻「真人によせて」より)
慚(ざん)愧(ぎ)の念すら無い自分に思いが至るばかりであります。