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住職のことば

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報恩講

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2019.11.03

今月の言葉「あなたが人生に絶望しても 人生はあなたに絶望しない」(ヴィクトール フランクル)は、台風15号で罹災し世情が混乱していた時期に、鋸南町塚原公民館前の掲示板(下の写真)にありました。

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真宗大谷派東京教区が設置し、この地区の世話人田村徹夫氏が管理しています。この言葉は、氏が選び掲示しました。
フランクルは、ユダヤ人の精神科医です。第二次世界大戦中ナチスに捕らえられ強制収容所で二年間を過ごしました。その体験を著した『夜と霧』をご存じの方もありましょう。
「人生はあなたに絶望しない」。
これは強制収容所で極限状態にあったフランクル自身が、立ち上がった言葉です。
親鸞聖人の人生には、絶望するほどの苦難が幾度もありました。その度に聖人は浄土真宗によって立ち上がられました。
私たちは、その教えに集う真宗門徒です。 その私たちが、信心を確かめ喜びを共にする大切な法要。それが報恩講です。

2019報恩講掲示板
以下に、宗祖親鸞聖人の事績を、『御絵伝』と『御伝鈔』で紹介します。

キャプチャ『御絵伝』第三巻13・14
『御伝鈔(ごでんしよう)』下巻第二段・三段の意訳

 

第二段

 

親鸞さまは、越後国をあとにして、常陸国へ移り、笠間郡稲田郷というところに住まわれることになりました。人里離れた山の中に移り住んだのですが、坊さんであろうと、俗人であろうと、そんなことに関係なくそこを訪ねる人は多く、粗末なわらぶきの家に、身分の高い人も、名もなき人々も続々と集まってくるのでした。
南無阿弥陀仏の教えをみんなのものに、という仏の願いは、ここにようやく花開き、だれでも歩める浄土への道は、やっとここに民衆の生活の中に根をおろすことになりました。
このとき親鸞さまは、「(※)救(ぐ)世(ぜ)観(かん)音(のん)の夢のお告げが、いま、やっと私の生活に現れてきましたよ」と、おおせられました。

※「救世観音の夢のお告げ」(上巻第三段)

「建仁三年(一二〇三)四月五日の夜、親鸞さまは、不思議な夢を見ました。その夢というのは、「その昔、聖徳太子がいつも礼拝されていた六角堂の救世観音が、おごそかな顔だちの高僧の姿となって現れ、真っ白な袈裟を身にまとい、大きな白い蓮の花の上におすわりになって、善信(親鸞さま)に向かって、「あなたは、今まで坊さんたるものは妻をめとってはならない、と禁止されていた伝統の戒律を、今こそ破らねばなりません。私は玉のような美しい女性となり、あなたの妻になりましょう。そして、一生の間、よくあなたの活動をたすけ、いのち終わるとき、私の生涯はこれで十分であったと、心から喜べるようになる極楽浄土に一緒に参りましょう」と告げられました。
そして救世観音はさらに、「これは私の誓願なのです。善信よ、あなたはこの誓願のあらわす深い意味をあきらかにし、色あせた夢も希望ももてない人生を歎く者に説き聞かせてあげるがよい」とお告げになりました。
そのとき、親鸞さまは、夢の中にありながら、お堂の正面に向かって東の方を見ると、けわしくそびえたつ山々がならび、その高い山の上に、数限りない人々が集まっているのが見えました。そこでお告げのように、その誓願の意味をその人々に説き聞かせ終わったときに、夢がさめたのです。

第三段

親鸞さまは、常陸国にあって、「ただひとえに阿弥陀如来の本願に自分の人生のすべてをまかせ南無阿弥陀仏の教えに導かれて、明るい、生き生きとした私に生まれ変わる」という体験を人々に語られましたが、その教えを疑いそしるなどという人は少なく、ほとんどの人は、その教えを心から喜び苦難の生活に立ち向かっていきました。
だが、この世の中には、そんな簡単に救いの門をくぐれる人ばかりとはかぎりません。常陸国に弁(べん)円(ねん)という山伏の修行者がおりました。偉い修行者ということでまわりの人々の尊敬を一身に集めていたのですが、親鸞さまのところへ、念仏の教えを聞こうと集まる人が多くなるにつれて、恨みを抱くようになり、最後には、親さまを殺害しようとまで思いつめ、親鸞さまの動向をうかがうようになったのです。
そのころ親鸞さまは、念仏の教えを説き弘めようと、板敷山という深山の小路をしばしば往復しておられたので、弁円はそこに待ち伏せして親鸞さまをつかまえようとしましたが、いつもさまざまな邪魔がはいって、その目的を達することができませんでした。そのうちに人のうわさをいろいろ聞いてみると、どうも親鸞という人は、自分が考えていたような人ではないらしいのです。そこでためしに一度会ってみようと思い、思いきって親鸞さまのすまいを訪れたところ、親鸞さまは喜んでお会いになりましだ。
弁円が親鸞さまの尊いお顔をはじめて仰いだとき、これはまことに不思議なことであるが、いままで親鸞さまを亡きものにしようと恨み憎んでいた心が一度に消え失せて、それどころか、「なぜこんなすばらしい人を殺害しようなどという恐ろしいことを考えたのか」と、後悔の涙がこぼれてくるのでした。
ややしばらくして、山伏弁円は、今までつもりつもっていた恨み、憎しみの心の内をありのままに親鸞さまにうちあけましたが、親鸞さまは、あまり驚くようすもありませんでした。
弁円は、そこで、すぐさま、持っていた弓矢を折り、刀やつえを投げ捨て、頭巾をはずし、着衣をあらためて、南無阿弥陀仏の教えに育てられる身となり、ついに今まで見失っていた生き生きとした人生に目覚めることができたのです。これはほんとうに不思議なことでした。後に明法房(みようほうぼう)と呼ばれるようになった、念仏者のお手本のようなお方は、この人のことなのです。その名は、親鸞さまがおつけになったもです。
(『親鸞聖人伝絵 ―御伝鈔―』東本願寺出版より)

『御伝鈔』は、親鸞聖人の生涯を讃える絵詞(えことば)『親鸞(しんらん)伝絵(でんね)』の詞書(ことばがき)の部分を巻物にした上巻八段下巻七段からなる物語です。作者は聖人の曾孫(ひまご)、覚如上人です。
『御(ご)絵(え)伝(でん)』は、四幅の巻物に二十の図が描かれています。
 報恩講には、本堂内陣の向かって左側の余間に掛けます。

親鸞聖人年表

 ※太字は、上記の『御伝鈔』に関係するところです。

1173年 京都日野に誕生する。1歳
1181年 京都青蓮院で出家する。9歳

この頃に鎌倉幕府成立

1201年 延暦寺の勤めを辞め、京都六角堂 に参籠し聖徳太子の夢告により、法然上人に師事する。 (『御伝鈔』では、法然上人に師事した後に、 六角堂に参籠している。)29歳

1204年 法然上人の門弟190人の一人とし て「僧綽空」と署名する。32歳

1205年 法然上人が著した『選択本願念仏 集』(浄土宗の教義書)の書写を 許され、上人の真影を図画する。 また、法然上人から「親鸞」(「善信」) という名をいただく。33歳
1207年 法然聖人が開いた浄土宗(専修念 仏)が禁止され、法然上人と門弟 が処罰(4人が死罪、8人が流罪) される。親鸞聖人は、越後国へ 配流となる。35歳 (法然上人は、土佐国に配流)
1211年 流罪を許される。39歳
1214年 越後国から常陸国に赴く。42歳
    以後20年間、稲田草庵(茨城県笠    間市西念寺)などを拠点に、聞法 求道の人生を歩み、関東の人々に 浄土真宗が伝わる。門徒の数は数 万人を超える。
一方、『教行信証』(浄土真宗の教 義書)の著作を始める。
   〇鹿野山神野寺や勝善寺(当寺) に訪れたという伝承もある。

1221年承久の乱

1234年 この頃京都へ移る。62歳頃

『教行信証』の推敲を続ける。
また、関東などの門弟のために、 和讃や「かな聖教』と呼ばれる書 物や手紙を書き送り、浄土真宗の信心を歩み続けた。
1262年 11月28日に京都で入滅する。90歳

 

1274年・1281年蒙古襲来

1333年鎌倉幕府滅亡
 

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