報恩講の時は、「おめでとうございます」なんですよ。
報恩講の時は、「おめでとうございます」なんですよ。
2019.12.15
この言葉は、勝善寺2019年報恩講の講師、百々海 真 師の言葉です。
目から鱗が落ちる言葉でした。
今までも一応「おめでとうございます」とご門徒に挨拶していました。しかし、どこかしっくりしていませんでした。
以下にその部分のお話しを掲載します。
報恩講の時は、「おめでとうございます」なんですよ。
十年近く前ですが、北海道のお寺の報恩講で初めてお話しするご縁をいただいた時のことです。北海道(第五組)では、二昼夜三日間の報恩講が勤まっていました。ですから、寺によって違いはありますが、初逮夜からご満座まで、法話も七、八座あるんです。そして、ご満座を終えますと、本堂であれば今私が立っているあたりに講師と参勤法中が参詣席に向かって座るのです。客殿(客間)で行われている場合もありましたが、同様に講師と参勤法中が並ぶのです。すると、住職、坊守、責任役員、総代、世話方、そしてご門徒さんが向き合って座ります。
そこで「御礼言上(おれいごんじょう)」、住職、あるいは責任役員や筆頭総代が「ご講師・参勤法中のおかげさまで、報恩講が無事勤まりました」と御礼を述べられると、答礼として講師と参勤法中は「おめでとうございました」と声を揃えて申し上げるのです。
初めてこの光景に遇った折にはとても感動しました。真宗寺院が聞法道場であることも、報恩講の為に真宗寺院が存在することも全てが凝縮された作法です。
そもそもお寺で「おめでとうございます」なんて、似つかわしくない気がする方もおられるでしょ。それほどにお寺の本来性を勘違いしているのです。
今日お参りの方々の中には、先日の台風15号に被災されて「おめでたい」なんてとても言えない方もきっとおられましょう。厳しい状況の中で、勝善寺様の報恩講が今お勤まりになっているのですね。
持ち前の幸福と不幸のモノサシに立てば絶対に「おめでたい」と言えない、思えない時だからこそ、そのモノサシ自体を翻してくださる教えに出遇い直す場としての報恩講をお勤めすることこそ、真実に「おめでたい」と言える世界があるのです。
「御礼言上」の起源や伝統については知りませんが、豪雪や凶作、あるいは戦争の最中にもずっと相続されてきたに違いありません。人間のモノサシの意味づけを破られる意味で、「おめでとうございます」と申しあげたことです。