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住職のことば

住職のことば

悪重く障多きものよ

悪重く障多きものよ

2020.09.10

見出しは、20年ほど前に本山で開催された住職を対象とした研修会で、宗(そう) 正(しよう)元(げん) 先生がお話しされた講題です。
当時私は、教職にありそれに参加する縁がありませんでしたが、『真宗』に掲載されたその際の講述文を読み、漠然としていた自分の抱える問題に光が当てられたような感じを受けました。そこに引用された『教(きよう)行(ぎよう)信(しん)証(しよう)』「総序(そうじょ)」の言葉は難しく内容も充分には理解できませんでしたが、この先生のお話しをもっと聴聞したいと思ったことを覚えています。
その後、月に一回ほど雲集学舎に通うこともありましたが、親鸞聖人が法然上人に求めたひたむきさはありませんでした。
宗(そう) 正(しよう)元(げん) 先生は、本年5月20日に93歳で西帰(さいき)されました。
今は、先生に呼びかけながらも中途半端な姿勢でしか聴聞しなかった非礼を謝すばかりです。
しかし振り返ると、私は先生に「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きものよ」と呼び続けられ、今に至ったようでもあります。


 

2001年度 第1回 真宗本廟育成員研修会
悪重き障り多きものよ(上)
ー 宗祖親鸞聖人がになわれた課題 ー
宗(そう) 正(しよう)元(げん) 講述
(抜粋)
悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの
「心昏(くら)く識(さとり)寡(すく)なく」という言葉で言い表しているのは、突き詰めて言うと、根本問題がはっきりしないということです。いろんなことを考えて、いろんなことを問題にしているけれども、己の人生そのものに関わってくる根本問題、生活そのものに関わってくる根本問題、それがなかなかはっきりしない。そういうことが「心昏(くら)く識(さとり)寡(さとり)なく」という言葉で言い表わされていると言っていいでしょう。「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」。何がどうなっても癒(いや)されない、そういう病を抱えている、そういう悩みを抱えているだけに、「癒(いや)しの時代」といわれてね、どうしたら癒(いや)されるかということばかりが取り上げられるけれども、何をもっても癒(いや)されない。親鸞聖人は「難(なん)治(じ)」、治らないといっておられますね。
それから「難(なんけ)化(か)」。何がどうなっても変わらない。修行したら少しは変革されるかと言えば、少しも変わらない。幸せになれば少しは人間が変わるかと思っても全然変わらない。
宗(しゆう)祖(そ)の呼びかけ
そういう人に親鸞聖人(しんらんしようにん)は呼びかけているわけです。「専(もつぱ)らこの行(ぎよう)に奉(つか)え、ただこの信(しん)を崇(あが)めよ」と。どんな人に呼びかけておられるのかと言えば、「穢(え)を捨て浄(じよう)を欣(ねが)い、行(ぎよう)に迷(まど)い信(しん)に惑(まど)い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すく)なく、悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」、そういう人に呼びかけ、そういう生き方しかできないものが大きな転(てん)機(き)を持っていると。
「機(き)」です。得難い転(てん)機(き)。
それはどんな転(てん)機(き)かと言うと、「如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぎ、必ず最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)に帰(き)する」と、こういう言葉で親鸞聖人(しんらんしようにん)が言い表しておられます。

穢(え)を捨て浄(じよう)を欣(ねが)い、行(ぎよう)に迷(まど)い信(しん)に  惑(まど)い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すく)なく、悪(あく)重(おも)く障(さわり)  多きもの、特(こと)に如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぎ、  必ず最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)に帰(き)して、専(もつぱ)らこ  の行(ぎよう)に奉(つか)え、ただこの信(しん)を崇(あが)めよ。
(「総(そう)序(じよ)」真宗聖典一四九頁)

「特(こと)に」という言葉をわざわざ使っておられます。つまり、如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぎ、必ず最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)に帰する転(てん)機(き)だということを言い表しておられるのです。のんべんだらりと、如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰いだり、最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)に帰すると、単にそういうことではない。如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぐというようなことは、どういうものの中に開かれてくる転(てん)機(き)なのか。「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」という言葉に収めて言えば、なんとかしたいと思っても、どうすることもできないようなそういう身。幸せになっても本当に喜べない。多少、「ああよかった」というものがあるにしても、そこに新しい生きる喜びを見い出すということまではできない。ただ、楽になったというだけであってね。
親鸞聖人は「総(そう)序(じよ)」の最後に、「聞くところを慶(よろこ)び、獲(う)るところを嘆(たん)ずるなりと」と、このように述べておられますでしょう。こういう慶(よろこ)びが出てこないのです。
そういう「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」、それはどうにもならない「難(なん)化(け)の三機(き)」(「信(しん)巻(のまき)」二七一頁)といわれているように。それが大事な転(てん)機(き)、もっと積極的に言えば、それは如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぐチャンスだということです。
この場合の「如(によ)来(らい)」というのは、釈(しやく)尊(そん)に代表されますが、ただ釈(しやく)尊(そん)だけじゃない。もちろん釈(しやく)尊(そん)以前もありますが、釈(しや)迦(か)・諸(しよ)仏(ぶつ)、よき人びとです。『歎(たん)異(に)抄(しよう)』で親鸞聖人(しんらんしようにん)が言い表しておられる「よきひとのおおせをかぶる」(真宗聖典六二七頁)転(てん)機(き)です。それは発(はつ)遣(けん)を受けるチャンスです。それは私どもをどこに発(はつ)遣(けん)するのか。『歎(たん)異(に)抄(しよう)』では「念(ねん)仏(ぶつ)して、弥(み)陀(だ)にたすけられまいらすべし」、念(ねん)仏(ぶつ)申せ、念(ねん)仏(ぶつ)して弥(み)陀(だ)にたすけられよと。こういう発(はつ)遣(けん)の声に出遇(であ)う、そういうかけがえのないチャンス、大きな方向転換する転(てん)機(き)として「特(こと)に」といわれているわけでしょう。
その後に、「最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)に帰(き)する」とあります。つまり、「如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぎ、最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)に帰する」という転(てん)機(き)が開かれる。また、そういう転(てん)機(き)を抱えているのが、「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」という意味ですね。それは「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」の出口です。「悪(あく)重(おも)く障(さわり)多きもの」にはどこにも出る道はないのかと言えば、そこに転(てん)機(き)がある。「如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)」は、永い歴史を持っているのです。親鸞聖人(しんらんしようにん)は「正信偈(しようしんげ)」に、それこそ「如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)」として、「唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)(ただこの高僧の説を信ずべし)」と、つまり、「念(ねん)仏(ぶつ)して弥(み)陀(だ)にたすけられよ」と、私どもを勧め、呼びかけてくださっているといって、七(しち)高(こう)僧(そう)のことを取り上げておられますが、この如(によ)来(らい)の発(はつ)遣(けん)を仰ぐ。「最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)」。「直道(じきどう)」というのは、それこそ涅(ね)槃(はん)に直(ただ)ちに結びつく道です。何かいろいろ修(しゆ)行(ぎよう)して涅(ね)槃(はん)をさとるのではなく、涅(ね)槃(はん)という境地ー涅(ね)槃(はん)ということは境地という言葉では言い表しにくいですね。むしろ、一切を一(いちみ)味(びよう)平等(どう)に受けとって生きるいのちと呼応していく生き方と言ったほうがいいかもしれません。
「発(はつ)遣(けん)」というのは声です。「念(ねん)仏(ぶつ)して、弥(み)陀(だ)にたすけられまいらすべし」と呼びかける声です。要するに一声(いつしよう)です。その一声(いつしよう)が聞けるかどうか。だから、その南無阿弥陀仏の声を「一声(いつしよう)」と。

いま弥(み)勒付嘱(ろくふぞく)の一(いち)念(ねん)はすなわちこれ
一声(いつしよう)なり、一声(いつしよう)すなわちこれ一(いち)念(ねん)  なり
(「行(ぎよう)巻(のまき)」真宗聖典一九二頁)

発(はつ)遣(けん)という言葉で呼びかける声をあらわしているわけです。「念(ねん)仏(ぶつ)して、弥(み)陀(だ)にたすけられまいらすべし」と。本(ほん)願(がん)に帰(かえ)れと。
「最(さい)勝(しよう)の直道(じきどう)」というのは、涅(ね)槃(はん)に直(ただ)ちに結びつく道。つまり、「一(いちみ)味(びよう)平等(どう)」にすべてを受けとって生きるいのちの世界と直(ただ)ちに結びつく道です。

(『真宗』2001年十二月号より)


 

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