• Home
  • 念仏申す生活を
  • 勝善寺を知る
  • 法要と行事
  • アクセス・お問合せ

住職のことば

住職のことば

謹賀新年

謹賀新年

2023.01.01

聞法求道の一年が始まりました。仏法を聴聞し、確かな人生を歩みましょう。

  寺族一同


宗教とは、生涯を託して悔ゆることのない、ただ一句の言葉との出会いである

 この言葉は、百々海 真  先生から当寺の報恩講でいただきました。
「宗教」というと、仏教やキリスト教・イスラム教などを思い浮かべますが、それは明治時代にレリジョン(Religion)の訳語として「宗教」が用いられるようになってからのことです。それ以前は、仏教の要諦つまり仏教の要点を表示する文字や言葉を「宗教」と呼んでいました。世界の三大宗教と括(くく)りますが、縁起の法に立つ仏教と絶対神を立てるキリスト教やイスラム教とは、大きな違いがあります。
さて、あらためてこの言葉を読むと、「宗教(仏教の要諦)は、生涯を託して悔いのない一句の言葉との出会いである」となります。

熱心に仏法を聴聞した伯父のとっさに出た一言にすくわれ、それが「生涯を託して悔いのない一句の言葉」となった女性のお話が、先生のご法話にありました。下記に掲載しましたので、ぜひ読んでください。
仏法が身についた方の生きる姿勢は、世間の常識に振り回され迷い惑うている私たちを、ハッと目覚まします。

ところで私たちは、お正月に「今年は、よい年になりますように」と無病息災、家内安全、商売繁盛などを祈りますよね。それが仏法を聴聞すると、その祈りが迷いの姿だったと知らされる。また仏教は、倫理道徳でも癒しや人格の陶冶でもありません。びっくり仰天ですね。

 仏教は、縁起の法。つまり今ある自分の事実を知らせる法です。だから常識に立つ私たちには聞き難い。されど確かな教えであります。


おお、婆ちゃんな、仏さんになってよろこんでおいでるがや。

※「婆ちゃんな」は「婆ちゃんは」、「おいでるがや」は「おられるよ」の加賀弁です。

 私は仏道の師がご晩年に石川県に暮らしておられたので、加賀のお同行方と今でもご縁があるのです。その中のお一人、石川県小松市に暮らす山本さんという方から今年の春に電話があったのです。八十代半ばで熱心に仏法聴聞されている方で、加賀友禅を扱うご商売をされています。
ここ数年は新型コロナの出現で、北陸に行くご縁も減っていますから、久しぶりのご連絡だったのです。話を聞くと、「北関東に暮らす自分の妹が亡くなって葬儀も済んだんや。妹のお連れ合いは、いわゆる無宗教で手次寺はないのです。お墓は近くの霊園に用意してあるそうなんや。けど妹は石川県小松の出身。嫁いでからはナンマンダブツのご縁は遠のいたけど、山本の家は京都のご本山の親鸞聖人のもとに分骨することになっとるんです。その伝統を妹の娘、二人の姪に言ったら「おじさんがそう言われるのならば、そうします」となった。ところが手次ぎ寺が必要なので、悪いけれども、百々海さんのところで手続きしてもらえないだろうか」ということでした。「もちろん手続きしますよ」と返事をしたところ、「姪は二人とも東京でご主人と子どもと暮らしているから、直接連絡させます。会ってやってください」となりました。
ほどなくして、その姪の方から連絡が入り、まずは挨拶に、と来寺されました。真宗の法名を名告って京都に分骨を、ということでしたから、日を改めて本堂で法要を勤め、手続きをしたのです。
ですが私には気になっていることがあったのです。確かに山本家は浄土真宗の教えを大事にしている家とはいえ、亡くなった妹さんのお連れ合いはご健在で、無宗教なのです。故人の娘さんである二人の姪も、当然ながら仏教やお寺についてもまったく知らないようでした。手次寺がないことは、現代の首都圏では決して珍しくないことですが、そのような環境で生活されてきたご遺族がどうして京都の本山に分骨しようと思われたのか、ご親族からの申し出とはいえ、見方を変えれば、余計な口出しと反発されてもおかしくないことですよね。ですから何故・・?という疑問があったのです。
来寺された折に故人の娘さんにお尋ねすると、伯父である山本さんの勧めに従おうと決めたいきさつを次のように語ってくれたのです。
「実は三十年ほど前に、父方の祖母が亡くなったのです。私はまだ二十代で、東京の会社に勤めて一人暮らしをしていたのですが、お通夜に間に合うように会社を早退して式場に向かったのです。コロナ下の近頃と違って、百人、百五十人が弔問に来られる大きな葬儀だったのですが、お通夜が始まるギリギリの時間に、大勢が着席している式場に小走りで入っていったら、式場に入った瞬間に手にかけていた数珠の紐が切れたのです。小走りだったこともあり、数珠玉がカラカラと音を立ててホールのあちこちに散らばって。お通夜が始まる前のシーンとした式場ですから、大勢の人が一斉に私の方を向いて、注目されてしまって・・。周りも私も「不吉なことが起こった」という空気になって、恥ずかしさとお通夜を台無しにしてしまった怖さで、私はどうしていいかわからなくなったのです・・」といわれるのです。
確かに数珠が切れることを不吉なことと捉えるのがむしろ普通でしょう。ですが数珠の紐は、切れる時には切れるのです。切れる縁があれば切れる。ただそれだけのことですが、私たちは事実を事実のままに見られないのです。それが迷いです。霊魂を想起して結びつけ、縁起が悪いと言い出すのです。そういう心が瞬間的に動くのですね。しかもそれが社会常識にまでなっていますから、根は深いのです。仏法を聞くと、どこまでも深い迷妄性を体質としている自分が、あきらかになるのですよね。
ともかくその方は、恥ずかしさと大事なおばあちゃんのお通夜で大失敗したと、半泣きで、転がったお念珠の玉を拾い始めたのだそうです。
そうしたらその小松の伯父さんが場の空気を察して、サッと立ち上がって、大声で「おお、婆ちゃんな、仏さんになってよろこんでおいでるがや」と。そうしたら、空気が一変し、場内のざわつきも収まり、自分も落ち着いてお参りすることができたというのです。そして、その一件をご家族は見ていましたから、「小松の伯父は、すごい」となったのだそうです。
小松の山本さんは仏法聴聞される中で、事実を事実のままに見る感覚、見識をいただいていたのですね。私は、生活の場における真宗門徒の生きる姿として、ささいなことのようだけど、実はとても深い出来事として教えられました。
その時の伯父さんの態度が、言葉がご家族に深く刻まれていて、それこそ耳の底に留まっていて、今回も「仏教に精通している伯父の言うことだから、京都に分骨しよう」となったというのです。私たちは、お通夜の席でそういう場面に遭遇したら、どういう態度をとるのでしょうね。日ごろの仏法聴聞がホンマモノかどうか、生活の現場で試されますね。
話を戻しますが、宗教に関する報道が続く中で、宗教とは一体何なのか。仏法は、霊魂に左右され、呪縛されている私たちの生き方の迷妄性を破る智慧でしょう。ある先達が「宗教とは、生涯を托して悔ゆることのないただ一句の言葉との出遇いである」と言われていますが、私を呼び覚ます言葉との出遇いでしょう。宗教というと、神秘や霊魂の世界をイメージしたり、あるいは感謝の気持ちになること、癒やしに持ち替えますが、そんなことではないのですね。親鸞聖人は「信心の智慧」とおっしゃいますが、一瞬ひらめく智慧、見識としてはたらくものなのですね。

百々海 真 師のご法話の抜粋(2022年11月19日勝善寺報恩講)

 

« 一覧へ戻る

住職のことば

ʐ^M[

Ƃ̂ A[JCuX

^@Jh@{莛

^@Jh

^@

ǂ݂ܐȁ@TOMOԂ

y[W擪