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住職のことば

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仏教って何?  浄土真宗ってどんな教え?

仏教って何?  浄土真宗ってどんな教え?

2024.05.16

これが、はっきりしていなかった。
池田勇諦先生のご法話(下の文)で、それが明確になり、それを確かめる仏教聴聞を今も続けている。
それまで私は、仏教を現(げん)世(ぜ)利(り)益(やく)(欲望の実現)や慰(い)霊(れい)鎮(ちん)魂(こん)(死者の追(つい)善(ぜん)供(く)養(よう))の呪(じゅ)術(じゅつ)と思い込み、また仏教・キリスト教・イスラム教を並列に見ていました。あるいは、真宗大谷派『宗憲』前文にある「阿弥陀如来の本願名号(南無阿弥陀仏)を行信する願生浄土の道(浄土真宗)が、人類平等の救いを全うする普遍の大道である」との文に「我が宗門は、ずいぶん高慢で我田引水だ」と批判的でした。
仏教を聴聞して、わかっていなかったことが、わかった。「仏教」「浄土真宗」、これがはっきりしたら。人生が変わる。
どう変わるのか?
料理は食べたら、美味(おい)しさがわかる。仏教は聴聞したら、それがわかる。


私はかねて三つの願いを持っておりまして、一つは仏教徒としてインドの仏跡を巡拝したい。二つ日は日本にもご緑の深い世界宗教の一方の雄、キリスト教の聖地を訪れたい。まずローマのバチカンに詣でたいこと。三つ目は二十世紀が戦争の世紀と言われ、その爪跡と言えば、何といってもわが国の広島・長崎の原爆投下跡を挙げずにいられませんが、外に眼を向けたとき、その最たるものとしてポーランド共和国のアウシュヴィッツ強制収容所跡を訪ねたいことでした。おかげさまでご縁が熟し順次訪れることができましたが、いまその中のカトリックの総本山であるバチカンに詣でた時のことを想起するのです。
バチカンのサンピエトロ大聖堂の前に立った時には、そのスケールの大きさ威容に圧倒されました。中へ入るとイエスの十字架の像が中心に安置されていました。そこで私たちは合掌念仏、礼拝をさせていただきました。念仏申しておりました時に、フッと私の中に思い起こされてきたのが、実は、今の『正像末和讃』の一首だったのです。「九十五種世をけがす 唯仏一道きよくます 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる」。ということは、世界宗教の一方の雄であるキリスト教も九十五種の内なのか、外なのかということです。大変乱暴な言い方ですけれども。そんなことが自分に思えてきました。「九十五種世を汚す 唯仏一道きよくます」と。「きよくます」道、人間を涅槃に方向付けるものはただ仏道の一つだというのです。だから唯仏一道の他は全部九十五種です。このお言葉からすると、私どもが仏教徒というご緑をいただいているということから、九十五種の中にキリスト教も入るといっていいのだろうか。そのことがフッと思えてきました。ヨーロッパの文化は世界の文明といってもよく、その文化の根底となり、ここまで育ててきたものはキリスト教の持つ文化力であると強く思えます。それだけにキリスト教には一つの真理が流れていると言えましょう。「唯仏一道きよくます」だから、そのキリスト教を仏道以外のものとして九十五種の邪道の中へ組み入れて良いのか否かと考え込んでしまいました。皆さん方どうでしょうか。あまりにも疑問が大き過ぎる。自分の中に思えてきたことが自分でもどう受け取っていいのか手に負えないといった感じになったことを今も思いかえします。
その後に参加した人と一緒に話し合いの時間を持ちました。私はやはり唯仏一道以外は邪道であるといわねばならないと思い到りました。キリスト教も九十五種の中に入る。けれども私がそう言わせていただくときに「唯仏一道きよくます」といった時、私たちは証大涅槃の真実道にご緑をいただいているから正しいのだと無意識のうちになっていないかということです。そうならば、すでにそれは九十五種に私自身が転落しているのではないか。唯仏一道をも九十五種の中に組み込んでしまう、そのような私たちの受けとめ方が強く問い返されてきたのです。
キリスト教は天国に生まれるという、ならばそれは幸福教です。幸福教であるならば九十五種の中身です。私はこのことをハッキリさせておかなければならないと思います。しかし、「私たちは唯仏一道を聞いているのだから」と言っていても、私たちの仏教の受け止め方がいつの間にか幸福教になってはいないか。お念仏を聞かせてもらうと幸福になれるのでないか。仏法を聞かせてもらうと幸せになるのではなかろうか。いつの間にか仏教をも幸福教に変質化させている私たちです。「唯仏一道きよくます」とは、人間を涅槃の一点に方向づける仏陀の真実の教えです。つまり人間を完全燃焼せしめる真実教です。そぅいう教えに遇いながら、無意識のうちに私たちは真実教をも幸福教にすり替えてしまって、仏教を聞いているつもりになっていないか。
仏教が私たちの上に生きていくということはどういうことか。仏の感覚と発想が私たちの上にはたらいていく時に仏教が生きてはたらくと言えるのです。仏教を聞いているから仏教だというわけにはいかない。人間が求めているものは幸福です。だから、幸福教というのは凡夫の感覚と発想です。そこでお念仏が受けとめられているのならば、仏法という名の世法を聞いているだけです。それは厳しいところです。そういう自己批判をいただくと、本当に幸福教である限りは、何であれ九十五種のうちです。いまキリスト教も九十五種だと言いましたけれども、我々もまた仏教を九十五種のうちに組み入れてしまっているのではないか、そういう自己批判がそこに強く動きます。その意味で「九十五種世をけがす」を受けとめたいことです。そのもとは※『涅槃経』の仏陀のお言葉ですが、それを善導がこういう形で自らの確信として書かれているだけに深く留意すべきに思います。
九十五種という幸福教は、この世のすべてのことが人間の幸せを追い求める手段として設けられている。政治・経済・教育・文化、全部がそうです。だからみな九十五種の中へ入る。仏教だけは入らないと思っているのは自己批判の欠落した私たちの傲慢なあり方なのです。確かに教えとして唯仏一道は九十五種の外です。けれども仏道をも九十五種の内に変質化させているという自覚を通さないかぎり「唯仏一道きよくます」が真に成り立たない。それがないとお念仏の担ぎ屋にすぎなくなってしまうでしょう。
(真宗大谷派東京教区聖典学習会講義録
『『教行信証』に学ぶ 二)』より)

※親鸞聖人は『教行信証』(『真宗聖典』初版251ページ第二版285ページ)に次のように引用しています。
『涅槃経』に言わく、世尊常に説きたまわく、「一切の外は九十五種を学びて、みな悪道に趣くと。已上
光明師(善導)の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり、と。已上」

 

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