• Home
  • 念仏申す生活を
  • 勝善寺を知る
  • 法要と行事
  • アクセス・お問合せ

住職のことば

住職のことば

浄土

浄土

2024.08.05

「浄土」は、死んでから往く世界と思っていました。それは「天国」だと言う人が最近は多いですが、それはキリスト教徒にとってのことです。日本では昔から「あの世」「草葉の陰」「冥土」と言っていました。しかし浄土真宗に縁のある皆さんには、「浄土」とか「彼岸」と言ってほしい。
「そんなことはどうでもよい。そもそもそんな世界があるのか?死んだら無になる」とのたまう方もいらっしゃる。「それではなんだか寂しいねえ」と前坊守は言っていました。
「浄土が私たちの国土になってくださる、居場所になつてくださった」と池田勇諦先生のお話しを聞き、びっくり仰天。浄土真宗をしっかり勉強しなければと促されました。二〇〇八年二月二十九日の僧侶を対象にした「聖典学習会『教行信証』に学ぶ」でのことでした。
もしこの「浄土」を知らなかったら、私の人生は羅針盤の無い航海、どこに居るかも分からず成り行きに任せに彷徨(さまよ)い、不安と虚しさに苛(さいな)まれていたことでしょう。


いまが一番いい時 いまが一番大事な時

 ここが一番いい所 ここが一番大事な所

私にとっては大変忘れがたいご緑なのですが、石川県の山代温泉に「永楽荘べにや」という温泉旅館がございます。今の社長さんは三代目です。初代は私の年代からは、親の世代の人なのです。その人が、近くの農家から山代温泉へ出てきて湯治宿を始められた、というのが事の起こりなのです。そして、跡を継がれた息子さんが、私より三つ四つ年上だったと思いますけど、六十代で亡くなられ、今はその息子さんが社長をやっておられると思います。その初代のご夫婦が、加賀の人ですから浄土真宗に非常にご緑があって仏法を大切にする人で聞法者だったのです。そういう家庭に育った息子さんですから、その息子さんも聞法して仏法に深いご縁をもたれた。山代温泉のど真ん中に、亡くなった出雲路暁寂先生の大谷派の大きなお寺がありますが、出雲路先生とも出会われて、仏法のご縁を深められたようです。その「べにや」さんのお住まいを私が訪ねましたとき、玄関に掛けてあった色紙に書いてあった言葉がとても印象に残っているのです。「いまが一番いい時、いまが一番大事な時」と。私ははっとしました。皆さんいかがですか。この「いま」です。私たちはこの「いま」が抜け落ちているのです。国土(※)喪失ということは、そのことじゃないですか。我々が言っている今は、今さえよければいい、後は野となれ山となれの刹那的な今でしょう。過去からも切り離し未来とも切れた単なる刹那的な今しか我々は知りません。だから虚しいわけでしょう。ところがこれは違います。過去をおさめ、未来を孕(はら)んだ真実の「いま」です。これは、有り難いというよりも厳しい言葉ですね。この言葉は都合のよいことにあった時はいいのですが、都合の悪いことにあった時に、「いまが一番いい時」と。どうですか、そういう問題です。本当の「いま」というのはそこなのです。健康な時も「いま」、病気になった時も「いま」、災難に遭った時も「いま」ですから、「いまが一番いい時、いまが一番大事な時」といえる智慧です。それが浄土が私たちの国土になってくださる、居場所になってくださったということじゃないですか。これは第十三願(※)の寿命無量の意味があらわれていまけれど、同時に第十二願(※)意も加えさせていただきますと、「ここが一番いい所、ここが一番大事な所」となりますね。時間と空間があらわされる。「いまが一番いい時、いまが一番大事な時。ここが一番いい所、ここが一番大事な所」。これが浄土に出遇った事実でありましょう。
(『『教行信証』に学ぶ』(一)より)


※は、下記文章をさ

本願酬報の国土

浄土というのは経典を見ると安養とか安楽とか極楽とか色々な言葉がありますが、親鸞聖人の『教行信証』においては「報土」という言葉、これが基本語です。「真仏土巻」の最初の言葉です。「大悲の誓願に酬報するがゆえに、其の報仏土と日うなり」(『真宗聖典』三〇〇頁)と。誓願、本願に酬報する土。本願に酬報するということは『浄土論』『浄土論註』にかえせば本願の荘厳です。本願は形がない。無相である。形を超えている。形を超えた本願が形をとった。それが荘厳、つまり報土です。だから、浄土というのは願心の形です。本願の心を表現している。願心荘厳の浄土であります。
今日の私たちは国土喪失(※)の生き方でないか。この頃、居場所という言葉がよく使われます。
居場所がないとか、居場所を見つけるとかいいます。今日の私たちの国土喪失という生き様の問題に応えてくださる願心は、国土を失っている私たちの国土となろう、居場所を失って生きている私たちの居場所となろうという願心です。それが本願荘厳です。どこまでも私たちの国土となろうという本願を、形をもってあらわしたのが浄土でしょう。だから浄土は三種二十九種の荘厳という、すがた、かたちであらわされているわけですが、それはまさに私たちの国土となってくださり居場所になってくださる本願そのもののはたらきにほかならない。それゆえ題号へ帰せば真実の教行証、行信という問題になる所以です。
ところでこの場合、本願は何れの本願かというと、第十二願(※)、第十三願(※)ですね。「光明無量の願」と「寿命無量の願」です。「真仏土巻」にはこの二願が標挙されています。十二願の光明無量ということは限り無き智慧です。十三願は限り無き慈悲です。光明のはたらきは空間、寿命のはたらきは時間であらわされる。光明は十方、寿命は三世という視点で見られる所以です。限り無き空間、限り無き時間の本願が限りなく私たちの国土となろうという、その国土はどんな中身かといえば、限り無き空間ということは「どこでも」ということ、限り無き時間ということは「いつでも」ということ。「どこでも」というかぎり、それは必ず「ここ」です。「ここ」に極まります。「ここ」が抜ければ「どこでも」は言えません。「いつでも」は「いま」に極まる。「いま」が抜ければ「いつでも」とは言えません。ならば、国土を失って生きている私とは、本当の「ここ」、本当の「いま」を見失って生きているということでありましょう。「いま、ここ」が無いのです。ああなったら言うことないとか、ああすればよかったとか、私たちはそんなことばっかりの生き方ですね。そういう私たちに、本当の「ここ」、本当の「いま」となりましょうというのが本願酬報の国土、本当の居場所となってはたらいてくださる。
(『『教行信証』に学ぶ』(一)より)

 

« 一覧へ戻る

住職のことば

ʐ^M[

Ƃ̂ A[JCuX

^@Jh@{莛

^@Jh

^@

ǂ݂ܐȁ@TOMOԂ

y[W擪