2024.09.09
命を食べて 命をつなぐ だから食前食後は
手を合わせて いただきます ごちそうさま
池田勇諦先生
食前のことば
み光のもと
われ今幸いに
この浄き食をうく
いただきます
食後のことば
われ今
この浄き食を終わりて
心豊かに力身に満つ
ごちそうさま
真宗大谷派では、お仏飯(ぶっぱん)を朝のお勤めをしておそなえし、その後に朝食をいただきます。
「お供(そな)え」ではありません。「お備(そな)え」です。
どう違うのか?
「お供え」は、私が神仏・亡き人のために、献ずる・差し上げることです。「お備え」は、仏さまから食べ物をいただく準備です。
年配の方から「子どもの頃、朝お勤めをしてからでないと、ご飯を食べさせてもらえなかった。」と聞きますし、今もそれは同じです。
食べ物は、仏さまからいただくものです。
自然の豊かな恵があってこそ、さらに数え切れない人たちのご苦労を経てやっと、食べ物が食卓に上ります。題字下の法語は、それを明快に教えてくれます。 「ごちそうさま」は、その食べ物をいただき命を繋(つな)げた感謝の言葉。私が生きるために命を奪われた動植物や手(て)間(ま)暇(ひま)かけてくださった方々への謝罪です。
食事は、単に栄養を摂取するだけでなく、すべてと関係し合って存在している私であると気づかせる仏事です。
ところがいざ料理を前にすると、「これは旨(うま)そう」とか「まずい」、「これは珍しい」とか「またこれか」、「手をかけた料理」とか「今日は手抜きだ」と、わがままが出てきます。
それだからこそ、「いただきます」「ごちそうさま」と掌(て)を合わせます。
「本当のことがわかればわかるほど、それと逆な在り方をして生きている自分が、いつも問われていく」(池田勇諦先生)
親鸞聖人や先達の歩んだ道が、「そうであったか」と知らされると、なんだか嬉しくなるのですが、はたして毎日三度の食事が、仏事になっているのか。
南無阿弥陀仏