私は、いったい何のために生まれてきたのだろうか。
私は、いったい何のために生まれてきたのだろうか。
2024.12.31
「私は、いったい何のために生まれてきたのだろうか。」
百々海 真 先生のこの言葉が私に「仏法を聴聞せよ」と聞こえました。
これは、ご催促です。
先生は、報恩講の講題を「「オギャア」の翻訳」とし、「宗教とか信仰とか言っても別のことがあるわけではなく、各自が自分の誕生の「オギャア」を生涯かけて翻訳することだ」と暁烏(あけがらす) 敏(はや) 師の仰せを紹介されました。
「私は、いったい何のために生まれてきたのだろうか。」と問い訊ねることが、宗教であり信仰。私の思いを固め頑なになることではなかったのだ!
文頭のご催促に応えるために、裏面下段の「ご予定ください」を、みな様の仏法聴聞の場として設けます。そして、住職は率先して聴聞します。さらに首を長くして、みな様を待ちます。
もう一つ、題字下の言葉から発見がありました。
真宗大谷派宗務総長を務められた能邨英士師の言葉に「どう生きるかが問題ではない。何のために生きるかが問題である。」とあります。実はずっと、私には解らない言葉でした。
「どう生きるか」は、一度限りの人生を後悔しないようにとか、最期まで迷惑をかけないようにとか、日常的な関心事です。「何のために生きるか」は、健康や名誉や信念や金のためとか、「世のため人のため」ということで、これも自我を満足させる欲望で、仏教ではありません。だから師の言葉に、疑問を懐いていたのでした。
ところが「何のために生きるか」、「自分の誕生の「オギャア」を生涯かけて翻訳する」ためでした!
仏法聴聞する生活をしていると、その都度に発見がある。こんな楽しく嬉しいことはありません。