ナムアミダブツは生きた言葉の仏です。
ナムアミダブツは生きた言葉の仏です。
2025.09.13
「『仏さま』たちのことをお願いします」と、寺に護持金を届けてくださる人がいます。亡き方を護り続けてくださいというお心なのでしょう。護持金は、みな様が仏教を聴聞し、さらに仏教を後世に伝えるための資金です。この納める側と受け取る側のずれを感じて、ずっと住職をしていますが、それはともかくとして、亡くなった人は「仏さま」なのですか?
滋賀県で真宗大谷派寺院の住職をされていた宮戸道雄師の著書『仏に遇うということ』(樹心社)に「ナムアミダブツは生きた言葉の仏です。仏さまという人がどこかにおられて、その仏さまにナムアミダブツと称えるんじゃないんです。ナムアミダブツが仏さまなんです。言葉になった仏さまなんです」とありました。
日ごろ「仏さま」と何気なく言っていますが、十人十色の「仏さま」があるようです。しかしそうではありません。
宮戸道雄師は「ナムアミダブツ」が「仏さま」。それは[生きた言葉の仏」と。
「生きた」とは、私に用(はたら)いている。私に影響し、私を変革する用きです。
「南無阿弥陀仏」は呪文でなく、「生きた言葉の仏さま」。我(が)を通して生きているだけの私に、ほんとうは、「すべてと共に在る私」を教える「仏さま」です。
本堂やご家庭のお内仏に奉安されている阿弥陀如来立像は、お釈迦様の姿になって現れた「南無阿弥陀仏」です。
このご本尊「南無阿弥陀仏」は、私の心を映す「鏡」です。真宗門徒が、毎日礼拝し一日をスタートする設(しつら)えです。
「南無阿弥陀仏」。この仏さまに遇わなかったら、我(が)を通して生きているだけの私が「ほんとうの私」であるとも知らず、妄念妄想に振り回され優越感と劣等感を繰り返し、空(むな)しく一生を終えたことでしょう。
S(主婦四十一オ)「ご院主さん、うちのお義母さん、 ようお参りされますやろ、もう三十年ですも」
M(宮戸住職)「そうや、婦人会の大将や」
S「でもご院主さん、お義母さんは、お寺で、嫁の 私の悪口ばかり喋っておられるそうですね」
M「そんなことない、誰がそんなことを言うとるの や」
S「ご院主さんは隠しておられるんや、私は確かに 聞きました。あれほどお参りしても、人の悪口ば かり言うのなら、お参りした甲斐がありませんわ ね」
M「まあそういうことやね」
S「年寄りが寺へ集まって、嫁の悪口を言い合うか ら、若いもんが寺へ参らんようになるんとちがい ますか」
M「そうや、若いものが参らん中で、Sさんはよう 参ってくれるんで、私も嬉しい。でもね、Sさん は同朋会にお参りして何年になるかな」
S「もうかれこれ十年ですワ」
M「十年にもなるか、十年も寺へ通うSさんは、お寺で人の悪口は言わんかいね」
S「あれー、ご院主さん、私が一度でも人の悪口を 言ったですか……」
M「そうか、本当に言うたことがないか、ほんまや やな」
S「ご院主さん、変なこと言わんでくださいよ、私 がいつ言いましたか」
M「そうか、じゃ聞くがね、今言うとることは一体 なんじゃ」
S「今言うとることって……」
M「分からんのか、お義母さんが悪口を言うとるの、 寺へ参った甲斐がないの……と。それは悪口とは 言わんのかいね、どうじゃ」
S「ウン……」
M「人の悪きことはよくよくみゆるなり、わが身の 悪きことは覚えざるものなり(蓮如上人)やな」
S「私の言うとることも、つまり悪口……になりま すのです……ね」
M「Sさんが眼をむいて、口から泡をとばして喋る ときは、いつも他人のこと、しかもその内容は、 人さまを裁くことばかりでないか。ね、それほど 真剣になって、自分を問題にしたことがあったか ね」
M「考えてみると、ないです」
S「ないどころか、お上手とおべんちゃらを言うて くれる人を探しておるんやないか」
S「お上手とおべんちゃら……ですか」
M「実は、私のことやけど、お上手とウソを言うて くれる人が好きになって、本当のことを言うてく ださる人が憎らしうなるのよ」
S「本当のことを言ってばかりいると、世間でおつ きあいができませんで」
M「おつきあいなんて、ウソとお上手のキャッチボ ールやないか。世間はそれしかないのやで、せめ てお寺とお内仏の前だけは、本当の自分を言い当 ててもらうというか、叱られる処にしておかんと、 一生自分と遇わずに終わることになってしまうも んね」
S「ほんと、お義母さんのことではのうて、私のこ とでしたワ」