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住職のことば

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2025.10.30

『真宗僧伽論-正信偈をとおして-』著者:安冨信哉 発行:東本願寺出版


仏教徒が帰依し供養せねばならなぬ仏宝・法宝・僧宝を三宝と言います。さとった人とさとりの法とさとりの法をめざす人々の集いのことです。「僧」は、僧侶ではありません。さとりの法をめざす人々の集い、「僧伽(さんが)」のことです。
これは、仏法を聴聞し語り合い、さとりの法に照らされ日常を生きる私たち真宗門徒を論じた書です。
世俗的な価値観に埋没し出世間(仏教)の価値観を失った私たち真宗門徒が、その回復のために自覚しなければならない内容が、ここに記されていました。


『真宗僧伽論-正信偈をとおして-』 世俗的価値優先の時代~相対的価値観から絶対的価値観へ

二〇〇八年六月八日、東京の秋葉原で通称「秋葉原通り魔事件」が起こりました。犯人はトラックで歩行者天国に侵入し、次々と歩行者をはね、その後、犯人は多数の歩行者を刃物で殺傷しました。七人の方が死亡し、十人の方が負傷しました。この事件を引き起こした青年は、「勝ち組はみんな死ねばいい」と言ったそうです。
この事件は、世俗的な価値観を優先して、人間として守るべきものを見失っている、あるいは見誤っていることを端的に示す事件です。確かに社会は人間の道徳等の世俗的な価値観によって、形成されていくわけですから、世俗的な価値観は大切であると思います。しかし、そのような世俗の価値観を超えた、出世間の価値観にふれることがなければ、はなはだしく迷うという現実があるのです。と言うのも、世俗的な価値観は、相対的な価値観であるからです。

現代は格差社会であり、勝ち組や負け租という価値観があります。しかしその価値観は、時代によって変貌していくわけです。つまり私たちはそれぞれの時代における価値観に振り回されているのです。そのようなことから私たちは、世俗の価値観を超えた者にならなければならないと思うのです。以前私は、次のように書いたことがあります。
私たちのこの身は世俗の中にあるけ れども、世俗を超えたものに眼を開 かないと、どうしても世俗の価値観 の中に縛られてしまう。つまり、人 間的な物差しだとか、自己だとか、 そういったものを中心に生きてしま うことになります。それはさまざま な意味で人間のひずみだとか、社会 のひずみだとか、そういうものをい ろいろ生み出しているのではないか と思います。いわば本尊、本当に尊 いことを見失ってしまったというこ とが、現代の大きな特徴ですね。
(安富信哉『帰依三宝-仏教徒の大 切なよりどころ-』東本願寺出版、 九~一〇頁)
現代は世俗の価値が前面に出過ぎてしまい、宗教的な価値を見失っています。それによって人間としての様々な問題が出てきています。
私たち真宗門徒は、日常の生活の中で「正信偈」や『御文』を拝読させていただいているわけですが、それは「正信偈」や『御文』をとおして、世俗的な物の見方と異なる、もう一つの仏教による物の見方を学んでいくということなのです。そのような意味においても、「正信偈」を大切なお聖教として拝読したいと思っています。また『蓮如上人御一代記聞書』は「真宗論語」とも言われており、大切なお聖教です。『論語』とは孔子の言行集であり、特に封建時代、武士に親しまれた一つの手本ですが、武士にとって自らを映し出す鏡のような書物だつたのでしょう。そのような意味で『蓮如上人御一代記聞書』が「真宗論語」と呼ばれたと伝えられています。
世俗的な価値観を依り処として生きるということは、例えばお金や名誉や社会的な地位等を本尊とするわけです。しかしそうではなく、私たちは仏の教えを本尊とするというようなことです。私の上に正信念仏が成り立つ時、世俗的な価値から出世間の価値へ、つまり相対的価値から絶対的価値へと転ぜられるのです。ここに人生の方向が出てくるわけです。それは念仏の智慧による生き方なのです。人知では頷けないかもしれません。しかし私たちは人知だけではどうにもならないのであり、仏智に照らされて生きていくのです。つまり人知と仏智の二つの中で生活していくのです。『御文』では「末代無智」(真宗聖典八三二頁)と言うように、私たちは末代無智の凡夫であるという一点に立ち、この裟婆を生きていくのです。それが其の生き方であると思います。人生の方向が世俗から宗教へと転ずるのです。

世俗から宗教へと転じていくことを、一般的には回(かい)心(しん)と言います。キリスト教も回(かい)心(しん)と言いますし、仏教では回(え)心(しん)と呼びます。
それでは、真宗においてその回心とはどのようなことでしょうか。親鸞聖人は『唯信鈔文意』において「「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり」(真宗聖典五五二頁)と説かれています。さらに親鸞聖人ご自身の回心については、『教行信証』「後序」において「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(真宗聖此三九九頁)と述べておられます。
その回心とは、具体的には本願に帰するということです。誓えて言えば、今まで根無し草のような状態にあった自分が、初めて本願という大地に根をおろしたのです。もっと具体的に言えば、念仏を申す者になるということです。
親鸞聖人ご自身は、比叡山の天台宗で修行されて、その修行の一切を放擲して、法然上人のもとへ行きました。心が翻るだけでなくて、身が翻ったのです。つまり回心とは転身のことなのです。それは一つの抽象的な理論が、抽象的な別の理論に変わったということではないのです。本当に自分が立つべき大地に根をおろすということです。さらに言えば、一緒に念仏申す者と共に歩みだすということでもあります。


念仏申し、『正信偈』を勤め、仏法を聴聞し語り合う。これが、出世間(仏教)の価値観に触れることです。

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