念仏申す生活を
念仏申す生活を
2015.12.21
私たち門徒は、毎朝、お内仏(お仏壇)のご本尊に対面する礼拝の生活、月に一度は近くのお寺などで仏法を聴聞する聞法の生活、礼拝と聞法により自分の心の相(すがた)を「仏様の眼(まなこ)」で見る正信の生活を、ご先祖様が親鸞聖人の教えをいただいて以来続けてきました。ところが明治時代から戦中戦後、そして高度経済成長期以降特に、その宗風は薄れ忘れられてしまった感があります。
「賢くなることばかりを教える世の中にあって、わが身の愚かさを知る道あり。」という言葉があります。
自分のことで考えてみますと、確かに賢くなりたいし他人からもそう思われたい。だから私も一生懸命に賢くなろうと頑張っています。今は順風満帆というほどではないですが、なんとか人並みに過ごしていると思っています。しかし、いつどうなるかわかりません。先が見えない時代でもあります。世の中を見てみると、みんな一生懸命に賢くなろうと頑張っていますよね。でも、もう頑張りきれないと自分で命を絶つ方もずいぶんおられます。
ところで挫折や失敗でつらいときほど、他人の優しさに敏感になることがありませんでしたか?その優しさは決して「賢くなる」ところから出たものではなく、「愚か」な自分を認めてくれた優しさであったように思い出せます。
阿弥陀様の優しさも、「賢い」人には届くことはありませんが、自分の「愚かさ」を知っている人のところには、もれなく届きます。
私たち人類は、「賢くなることばかり」を求め、便利で豊かで快適な生活を実現しました。そして同時に環境を破壊し人間までも破壊しています。ある先生は「人類は滅亡に向かって努力している」と仰いました。
誰もが「このままでよいのか」という不安を抱いています。政治や経済、教育や倫理道徳にその解決策を求める声も聞きます。しかし、賢くなることばかりを考えている私たちが、何をどう努力しても根本的な解決にはなりません。一時的にごまかされることはあるでしょうが。
「わが身の愚かさを知る道」だけが、私たち人類を救う教えだと、私は言いたいのです。「賢くなることばかりを教える世の中」ですから、その道は世間から見向きされることはありません。ところが阿弥陀様の優しさに触れその道を歩んでいる方々は、実に各地に散在し、少しずつではありすが着実に増えているようです。
仏様の眼により「わが身の愚かさ」を知らされる道、それが親鸞聖人が開いた浄土真宗、念仏申す仏道です。礼拝・聞法・正信の生活は、その実践です。それは世の人の優しさに包まれる生活です。
ですから、すでに浄土真宗に縁が付いてしまった私たちに真宗門徒は、この宗風を回復する責務があります。
2015.1220真宗会館日曜礼拝要旨