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住職のことば

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礼 拝 ―合掌(がっしょう)恭敬(くぎょう)する心―

礼 拝 ―合掌(がっしょう)恭敬(くぎょう)する心―

2016.01.20

1月18日(月)に当山第29世釋純昌三回忌法要をお勤めいたしました。
 

「浄土真宗の法要は、亡き人を諸仏として礼拝することです」と、浄真寺住職がご法話くださいました。このことは私が常々ご門徒の前でお話ししていることなのですが、あらためてそのことを考えることになりました。
 
脳裏に浮かんだ二つのことを記します。
 
一つは、先輩教師であった井手雄二郎先生からの年賀状に書いてあったことです。 

「昨年、書籍整理をしておりますと、うす茶色に古びた斉藤茂吉著作の「短歌一家言」という本が出てきました。買い求めた覚えがないなーと頁をめくると半分に折られた便せんがはさんであります。そこには 晩年になってから心のかてになればと残しておく 雄二郎へ 紛れもない父の毛筆です。ところどころに内容についての感想・意見のようなものが書き込まれて深く読まれております。今この年になって新たな相続を得たのです。不思議なものです。父の存命中は全く興味のない[短歌]だったのですが、この頃は日々の生活の中でいつの間にか三十一文字を探しているのです。相変わらず子どもたちとお山の学校で楽しく遊び、学ばせていただいております。元気一杯走り回っている子どもたちに伝えたいものはいっぱいありますが、それをどう伝えるのか、改めて考えてみる年にしたいと思います。」
 
もう一つは、私の父のことです。 

父は私と同じように50代のはじめ頃まで教員をしていました。もう教え子は一番若い方で70歳近くなっていますが、いまだに「先生、先生」と慕われているのです。先日も、墓参りに訪れた教え子に父の残した色紙を差し上げると、その時に来られなかった方から「先生の書いたものが何でもいいからほしい」と求められました。なぜ、そんなに懐かしく慕われているのかわからないのですが、おそらく父は「何々しなさい」とか「生徒はこうあるべきだ」とか教員らしいことを言わなかったのではないか、義務と責任に縛られることを嫌がる人でしたから。生徒を喜ばそうとして、ジョーク、駄洒落が多かったようですが、を連発し、漫画のような絵や好きな言葉を黒板に書き生徒を喜ばせていたようです。そんな先生(父)に生徒たちは親しみを感じていたのかもしれません。私は、思春期をむかえる頃から、そういう父が嫌いで、役立つ人間になる努力もしないまま、反発してきました。その延長線上に今もあるようで、ついつい「寺はこうあるべきだ」、「僧侶はこうあるべきだ」と生きています。50年以上前の先生を慕う初老の方々に、私が感じられなかった父の尊さを教えられたように思いました。
 
いまさら亡き人に自分の気持ちを伝えようもありませんが、その恩徳に気づき頭が下がり掌を合わせる。それが「亡き人を諸仏として礼拝する」ということなのでしょう。
 
「諸仏とは、私を仏法に出遇わせてくださつた方のこと」と、私は聞いています。

 

 

 

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