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住職のことば

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自信教人信

自信教人信

2016.09.24

自信教人信  善導大師『往生礼讃』

この法語は、「自ら信じ人を教えて信ぜしむ」と訓読します。
本願念仏の法(浄土真宗)を自ら信じ、人にも教えて信じさせるという意味です。
この言葉を私が初めて知ったのは、24歳の頃、今から38年も前になります。住職の資格を取得するため東京大谷専修学院で学んでいた時のことでした。
当寺の私は、「僧侶」を訝(いぶか)しくまた高慢な者と嫌っていましたが、その自分が僧侶になる勉強をしなければならないという矛盾を生きていました。
私のその思いを破ってくれたのが、この言葉でした。
僧侶の務めは「自信教人信」にある。呪術者のようにお経を読誦することではない。それなら僧侶になってもいいかなと。
今年は、住職に就任し10年目になります。今あらためて「自信教人信」という言葉の意味を考えさせられています。
寺が、自信教人信の場、すなわち聞法道場となるよう、住職が進んで聞法しご門徒の皆さんにそれを勧める活動を続けまいりました。しかしそれが「自信教人信」なのかと。
法敬房順誓という方のお話が『蓮如上人御一代記聞書』にあります。仏法をたいへん敬い、礼拝・聞法の生活をされていた方なので、蓮如上人から「法敬」という名をいただいています。
ある人が法敬房に、「あなたは自信教人信の誠を尽くしていらっしゃるようだが、坊守さんの無信心はどうしたわけですか」と尋ねました。
連れ合い一人教化できていませんねと、厳しいご指摘です。
法敬房は、「私は朝と夕のお勤めを欠かさず『御文』も拝読しています。しかし、かつて私を目覚めさせた『御文』の言葉も、「またこのことか」と今では思い、以前のように驚き喜びを感ずることはありません。どうしてそんな私の言うことを坊守が聞き入れることがありましょうか」と、応答されました。
「自信教人信」は、私の分限ではない、ということでしょう。
親鸞聖人は、「自信教人信」について「自ら信じ、人に教えて信じさせることは、難しい中にもなお難しい。しかし仏の大悲はどこまで弘(ひろ)がっていき、すべてのものを教化してくださる。真(まこと)に私たちはその仏恩を報じていくほかないのである」(『解読教行信証』)と述べていらっしゃいます。「自信教人信」は、阿弥陀仏(如来)のお仕事だと。
この文章を書きつつ、なぜかご門徒の皆さん、お一人おひとりのお顔が思い浮かんでまいりました。
今の寺の活動に、賛同してくださる方、批判的な方、あまり関心のない方、様々な方がおられます。そして、いろいろなことがあって、今があります。参加協力してくださっる方ばかりが今を作ったのではありません。反対拒絶された方々にも支えられてきたのでした。
阿弥陀仏(如来)の「すべてのものを教化してくださる」大悲を、今そこに感じています。
「真(まこと)に私たちはその仏恩を報じていくほかない」です。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…。

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